――遠い日の夢を見た。
 二百年以上を遡る、古い古い昔の、愛おしくも哀しい兄妹の夢を見た。
 唯一人の肉親の為だけにすべてをかけた妹を。
 人間ひとの世の善きも悪しきも見る眼を得たが為、道を踏み外した兄を。
 二百数十の歳月を重ね、再び出会うことはなかろう、かの兄妹。あののち、仙境に留まったか、地上に降り地を耕したか。彼らのその後を、今の童虎が知る術は最早無い。

 閉じた瞼を上げ、視線を、廬山の大滝を挟んだ対岸の岩場へと向ける。
 岩の上、ひらりと舞うは、瞼の裏に残る懐かしき面影に重なる長い黒髪。
 その髪は、弟子のもの。常人には見えざるものを視る弟子は、長く伸ばすほどに勘が冴えると言い、その黒髪を叶う限りに伸ばしていた。
 一つに編んだ長い髪が、拳を突き、蹴りをはなつ度、空に舞い踊る。
 波紋一つ立てぬ静謐を纏い、流水の如く滑らかな動きは、さながら演舞のよう。
 踊る髪の影から覗く背には、漆黒の羽根が舞う中、泳ぐ大魚――鯤が浮かんでいた。
 幽冥界あのよのものを視る弟子が、白澤の力を得た懐かしき彼を思い出させた。
 今、童虎の前にいる弟子の様に、彼もあの後、笑うようになれただろうか。
 切なくも愛おしい想いを抱きながら、水が流れるようにすべらかに拳をふるう弟子を眺め――、童虎は、そっと目を伏せた。
 瞼を閉じ、視界が漆黒に包まれる。

 すると。
 爆音を上げ、無数の水滴が、童虎の上へと降り注いだ。
 カッと目を見開き、視線を転じる。
 そこにいたのは。
 長い黒髪の。
 廬山の大滝を逆流させる猛々しさを得た、背に、その名にも冠する龍を背負う、少年の後ろ姿があった。

 ――あれもまた、夢であったか。
 懐かしき知る辺の夢か。
 先に逝った弟子の夢か。
 いずれが夢であったのか、どちらも夢であったのか。
 ただ、今、目前にいる弟子の黒髪が風に舞う様を、童虎は、寂寥にも似た慈しみをもって眺めるばかりだった――。



『一炊の夢』(13年1月初出)
LC外伝ネタ。外伝の人と本家の弟子と当サイトのオリキャラが全員黒髪ストレートロン毛だったのでつい。
 よたよたと。
 白い毛皮に覆われた四足が、覚束ない足取りで追いかけてくる。
 それが気にかかるのか、五対の下肢は歩みを少し遅めたり、時折立ち止まったりしながら、距離がひらき過ぎないように調整していた。
 海将軍達の――特に年少の海将軍達の後を、ホッキョクグマの仔がひょこひょこと付いてまわる光景が近頃の海洋神殿での日常になりつつあった。
 しばらく前に、アイザックが氷の裂け目に落ちて怪我をしていたところを保護した仔熊は、折れた骨もつながり自力で動き回れるまで回復していた。
 動けるようになった仔熊は、世話をしてくれた海闘士達に対する警戒心をすっかり失ったようだった。その中でも特に、拾った当人であるアイザックに懐いてしまったらしい。アイザックの後ろをよてよてと付いてまわるようになって久しい。
「本当に懐かれたな」
 後ろを振り返り、ひょっこひょっこと追いかけてくる仔熊を優しく見返しながら、バイアンが呟く。
 傍目から見ていると、非常に微笑ましい様相なのだが、当のアイザックは嬉しいながらも困惑しているようだった。
「……こんなに人馴れしてしまっては、まずくはないだろうか?」
 元より、怪我が治れば元いた土地に返すつもりでいたアイザックには、人間に馴れてしまった仔熊の行く末が気になるらしい。
「もう、覚悟を決めてずっと世話をするしかないな」
 悪戯っぽく笑って、イオが言うと、アイザックはますます困ったように眉根を寄せた。
 そんなアイザックを説き伏せるように、ソレントも言葉を添える。
「――まあ、元々、こんな小さい仔熊が母熊からはぐれてひとりで生きてはいけないだろう。野生に返すよりはその方が良いかもしれないな」
「しかし、怪我が治ったら返すと最初に言ったのだ」
 そう約したのに、己から反古には出来ないと、律儀に語るアイザックに、傍らからクリシュナも言葉を重ねた。
「あの仔熊は、アイザックが生かす為に保護したのだろう。ならば、独力で生きていけるようになるまで世話をしても前言を翻したことにはなるまい」
 周囲の優しく受け入れる言葉に。
 アイザックだけが困惑していた。

 そして、海洋神殿の別の場所で。
「そういえば」
「ん? なんだ、カノン」
「ホッキョクグマとは、どの程度まで成長するものなのだ?」
「成獣は、2〜3メートル程になります」
「調べていたのか、オラフ?」
「既にある程度は上下関係を教えてありますので、犬のようにはいきませんでしょうが、ある程度の躾は可能かと」
「……お父さんが用意周到すぎて怖いんですけど」
 年長の海将軍二人と、その腹心達三人がそんな会話を交わしていることを。
 年少組達は、まだ知らない。



『なつかれちゃいました。』(13年4月初出)
本格的に飼われる方針が定まりつつある仔熊(笑)
「ゲッシュ?」
 副官が口にした耳慣れない単語に、バイアンは軽く目を瞬いて首を傾げた。
 先刻、このケルピーの海闘士は、死を告げる女妖精や首無し騎士の伝承を微にいり細にいり恐ろしげに語り――途中から聞いたバイアンでさえ背筋が凍りそうになる臨場感だった。幼い子供だったらトラウマになりかねない――、同僚達の肝をたっぷり冷やしていた。
 他の皆と別れ、二人連れ立って歩くとりとめない雑談が彼の故郷の伝承や英雄譚の話になったのは、その前提があれば自然な流れである。そして、彼の話の中で、その耳慣れない単語が出てきたのだった。
 バイアンの不思議そうな語調を察し、副官は目を細めて微笑んだ。
「騎士に与えられる一種の禁忌です。エリンの若者が騎士になる時に、ドルイドが――ケルト神話における魔術師ですけど、その若者にとって命を脅かすような危機を遠ざける為に、占いや予知で避けるべき事柄を特定して与える禁止事項です。主君や女性から与えられる制約もゲッシュといいますけど」
「中世の騎士の誓いのようなものか?」
 彼の説明に、確認するようにバイアンが反問すれば、副官はそっと首を捻って――頷いた。
「多分、同じようなものだと思います」
 ゲッシュはとても重要なもの。ゲッシュを違えることは生命に関わるほどの大事。
 副官の語る言葉を聞きながら、バイアンはわずかに視線を落とし、視界が危うい彼の手を引く為に重ねた互いの手を見る。
「では、わたしにもゲッシュが与えられているな」
 ぽつり、と。
 引く手を眺めながらこぼしたバイアンの呟きに。
 そっと首を傾げた相手に、バイアンは視線を戻して、穏やかに笑ってこう言った。

「ポセイドン様と、海界の皆を護ること」

 笑みながら誇らしげに告げたバイアンの言葉に、彼はきょとん、と目を丸くする。
「海将軍に選ばれた時からのわたしにとって最優先の事柄だ。命を懸けて守るべき大事だ。なら、これはゲッシュと呼んでもいいだろう?」
 自身を海将軍に選んだ海皇と。他の海将軍、そして、自らに従う海闘士達。
 彼らと共に、彼らを護る為に、己は何度でも戦場へと向かうだろう。
 生命をかけて守る制約をゲッシュと呼ぶのならば、バイアンが心中に抱くその誓いもまた、ゲッシュと呼んで支障はないだろう。
 微笑んでそう告げると、彼は眉間に皺を寄せた。
「グラント?」
 その表情の理由が思いつかず、首を傾げて名を呼べば、彼はバイアンに引かれる指先に力を込めて、重ねた手を握り締めた。
「それでは、バイアン様の命を護る制約ゲッシュになりません」
 きつく眉根を寄せて、囁くように小さくこぼした副官の様相に、バイアンの胸の内を罪悪感の棘が刺激する。
 先の聖闘士との戦い。
 それによって、バイアンに従う海闘士達がどれほど嘆いたか。今、肩を並べて歩くことが出来るがゆえに、それを失念していた。
「――グラント。では、君がわたしに約束してくれないか?」
 引く為に重ねた手を強く握り返す。そして。
「わたしが一人でどこかにいってしまわないよう、共について来て欲しい」
 微笑んで、与えた制約に。
 彼は大きく目を見開いて――、そっと頷いた。



『せいやく』(13年5月初出)
LC外伝からのケルト神話ネタ。バイアンが日々男前になってる気がする(笑)

Back

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送