「…………ああ。切ってしまってもいいのか」 報告書に目を通していたところ、ぱらり、と視界へ流れてきたのは、己が髪の一房。 つい、と、鬱陶しげにそれを肩の後ろにはらい……、何気なくその言葉がこぼれ出た。 呟いたカノンにしてみれば、それは、無意識に近い領域からもれた一言だったが。 「――どうした?」 傍らを歩く男の空気が、ほんのわずか、変わったことに気付き、カノンは軽く視線を向けた。 報告書の束を繰りながら、歩みを共にしていた副官は、筆頭の問いかけに、言葉を探すように顎を撫でる。 「いえ。この季節柄に、そのようなことをおっしゃられるとは意外だと、思っただけです」 返ってきた言葉に、カノンが軽く首を傾げて促せば、ムハンマドはカノンを見返しながら、言葉をつないだ。 「暑い盛りの季節ならば、鬱陶しく蒸し暑い、とおっしゃり切ろうとなさっても可笑しくはないと思います。が、この寒い時期ならば、防寒に丁度良い、と考えておられると思っていたものですから、意外な発言だと思った次第で」 「なるほど」 副官の私見に、納得して頷く。 確かに、この長さと量だと、背中と首周りはあまり冷えずに済む。 「ならば、寒さが和らぐまでは切らんほうがいいか」 視線を手元の書類に戻し、深い意味などなく呟いた。 言葉を交わしながらも、お互い歩みは止めないままだ。何といっても、“筆頭”の立場にある以上、多くの責務を負わざるを得ず、目を通さねばならない報告も多いのが実情だ。今のように海洋神殿内を移動する間も、報告書に目を通さねばならないこととてある。 「俺は、夏の間、うんざりなさいながらも切らずにおられたのは、てっきり、冬の間の防寒の為にとっておられたのだと思っていましたが……。違ったのですな」 執務室から持ち出してきた優先度の高い報告書の中から、更に選別する為に繰っていた書類に視線を戻しながら、ムハンマドが何気なく口に出した発言に、カノンはわずかに眉根を寄せた。 「――エウロペが勿体無いと喧しかったからな。面倒になっただけだ」 いつぞやの暑い盛りに、盛大に喚いていた光景が思い起こされ、その時のうんざりした心境まで思い出す。 それに気づいているのかいないのか。ムハンマドは少し首を傾げてから、納得したように頷いた。 「勿体無い? ……ああ、なるほど。確かに、そこまで伸ばした時間を考えれば、ざっくり切るのは惜しいような気もしますな」 「――時間?」 カノンの思考の斜め上をいった副官の発言に、思わず単語を鸚鵡返しに口にすれば。 ムハンマドは、報告書の束から、一枚抜き取りながら、言葉を続けた。 「そこまで伸ばされるのに、十年はかかっておいででしょう? 簡単には元に戻らないものですからな。思い切りよくいってしまうのも、少々勿体無いような気もしなくはない、というのも分からんでもありません」 「エウロペの主張の主旨は違ったぞ。珍しい色をしていて、ろくに手入れもしていないのに枝毛も切れ毛もないのに勿体無い、と意味の分からんことを散々喚いていたな」 「ああ、そういう視点もありましたか」 カノンが口にした過去のやりとりに、ムハンマドは再び納得の頷きを一つした。 「まあ、確かに、シードラゴン様はどこぞの美術館か博物館に飾れそうな美男子でいらっしゃいますからな。惜しむ気も分からんでもありませんが……」 「飾られても迷惑だが」 「ものの喩えです、気になさらず。それに、シードラゴン様の場合、顔の良さはあくまで付加価値に過ぎませんからな」 またも、予想外の発言に、軽く目を瞬いて、カノンは己の副官に視線を向けた。 カノン自身は、まったく興味も関心もない己の容貌だが、周囲の反応から、かなり特異であるらしい、程度の認識はなんとかあった。それを、傍らの男は、ただの付加価値ときってすてた。 そして、カノンの視線に気づかぬ様子で、発言を続ける。 「シードラゴン様の価値はあくまで内面にあるわけで、美男子でなくとも海龍でなくともたいした問題ではありませんからな」 何の気負いもなく。 若干の問題発言にも気付かず。 呼吸でもするかのように、自然に吐き出された発言に。 「? シードラゴン様?」 二歩分、後ろで足が止まった筆頭に気付き、ムハンマドは不思議そうに振り返り足を止めた。 「如何なされました?」 「…………いや、なんでもない」 問いかけに、カノンは、表情も口調も常のまま、言葉を返し、歩みを再開する。 内心では、かつて味わったことのない精神的なむず痒さに、心中首を傾げていたことに、誰も気付くものはいなかった――――。 『あなたはあなたのままでいい』(12年1月初出) |
幼い頃の話だ。 まだ、ピレネーの山中で、師と二人、修行の日々を重ねていた、遠い昔のことだ。 我が師には、日課があった。 弟子と就寝の挨拶を交わした後、月光の下、組んだ足の上に刃を一振り乗せ、瞑想に耽るのが、師の日課だった。 その刀は、聖闘士の持ち物としては甚だ相応しからぬものであったが、師という人にはひどく馴染むものであった。 異国よりもたらされた細身の白刃は、一見華奢ともいえた。それでいて、怜悧に輝く片刃の刀身は、凄烈さえ覚えるほどに鋭利であった。 だが。その刃は、師の手の内にある時は、どこまでも清冽だった。 凛然と居住まいを崩さぬ師の清廉な姿を映すが如く、清らかに月光をはじくその様を、幼き頃の俺は、遠目から飽きずに眺めたものだ。 武器を禁じられた聖闘士が持つには相応しからぬ刀剣は、だが、師が携えるとまるでその身の一部であるかのように似つかわしく見えた。 いや。師自身の在り様こそが、一振りの刀剣の如くであったのだ。 俺の手刀に『聖剣』の名を与えたのは、他ならぬ師であったが、俺の『聖剣』は、あくまで、物理的な鋭さに過ぎず、戦う術としての刃でしかあるまい。 だが、師は、存在自体が、師自身が所持していた刀剣そのものであった。 その佇まいは剛ではなく柔であり、それでいて、その拳は研ぎ澄まされて鋭く――、怜悧で清冽な、かの刀身そのものの人だった。 鞘に刀身を収めたが如くに、常は威圧感など露ほども感じさせぬ静謐を身に纏っていた。 反面、その拳を振るう時は、掠めるだけで斬り裂かれかねぬ鋭さを見せる。 静と動。その双方を併せ持つその刃こそが、師という人を何よりも体現するものであったのだ。 あのようになりたい。 師の様な聖闘士になりたいと、あの師の姿を見る度、思ったものだ。 ――恭しく、両の手で捧げ持つ日本刀に、視線を落としながら語り終えると、シュラは目を細めて口を閉ざした。 鮮やかな朱色の下げ緒を巻いた漆黒の鞘。それに収められた一振りの脇差は、持ち主にさぞ大切に扱われているのだろう。鍔に細やかに刻まれた百足の彫りの一筋にすら一片の埃ものっていない。 そして、何より。 その刀を見る、その眼差しが。 師を想う思慕の深さが容易に読み取れる、切ないほどに柔らな光を双眸に湛え、師の残した形見を見つめるその姿が、何より雄弁に、弟子の想いを物語っていた。 憧憬さえ滲ませて、シュラは囁くように、ぽつりと呟く。 目前にいる者に聞かせる為ではなく、おそらくは、己自身へ言い聞かせるがように。 ――師こそが、俺の目指す『聖剣』のあるべき姿なのだ、と。 希求の形をとった、それは、宣誓の如く言葉だった。 『指標』(12年7月初出) |
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