わぁお。 いささかわざとらしく、平坦な口調での驚嘆の呟きをあげ、続けて、手にした体温計の数値を読み上げた。 「大台手前ですよ、38度9分。ここまで上がって39度までいかないなんて、まあ、往生際の悪い」 高い数値をたたき出した体温計をケースに片付け、ベッドサイドに椅子を置いて陣取る相手は嘆息交じりにこう続けた。 「なんだって、ここまで悪化するまでほったらかすんですかねぇ、この人は」 言いながら、いつの間にそこまで準備したのか、折りたたみ式のテーブルの上に設置した洗面器から手巾を絞る。 それを、ベッドの上に横たわる青年の額の上に乗せながら、さらに言葉を付け加えた。 「三徹した翌朝に急に、じゃないでしょ。その前から調子はよくなかったんでしょ? なんだって我慢して無理しますかね。ご自分の身体を過信しすぎでしょ」 そこまで言うと。 指先で、つい、と眼鏡を上げて、南氷洋で次位を与えられている男は先からの諫言をこう締めくくった。 「少しはご自愛下さいませんか、カーサ様?」 ぽんぽんと。 言いたい放題に言葉を重ねながらも、手は休みなく動き、今はカーサの顔や首筋の汗をタオルで拭っている。 言われる内容は正論で。 受ける看病は甲斐甲斐しく。 ほとんど声が出ないこともあいまって、カーサは反論の仕様がなかった。 「さ。スープも出来てますから、飲んで下さいね」 野菜たっぷり、栄養しっかりの白湯ですよ、などと言いながら。 いつの間に用意していたのか、テーブルの奥から手鍋を引き寄せる。 「…………いらねえ……」 ぜーぜーと。荒い呼気の合間から、掠れたか細い声で食欲がないことを短く訴えるも。 「飲・み・な・さ・い」 九歳年長の威厳を込めて、笑顔で払いのけられた。 「起き上がれないでしょうし、これで飲みましょうか」 手際のいいことに、どこから支度してきたのか、薬呑器を取り出し、お玉で鍋からスープを注ぎ入れる。 「イヤだって言うなら、栄養点滴しますよ?」 「…………重病人かよ……」 笑顔のごり押しに、熱の所為ばかりではなく顔をしかめて、カーサが呟けば。 「重病人でしょ」 と。 あっさり言い切られたのだった。 『風邪―versionB』(09年1月初出) |
彼のワイバーンには、観賞に値するものを眺めるゆとりがない、嘆かわしいことだと。 不意に。 常日頃見慣れた冥衣ではなく、ゆったりとした法衣を身にまとい、悠然と長椅子に腰掛けたグリフォンの君はそう言い出した。 ここは、姿を改めた冥府の裁きの館の奥城。 トロメアの者達が居とする一角にある、広間。 三巨頭が一、天貴星が愛用している一室だ。 唐突な上官の発言に――慣れてはいても――、彼の代行官たるルネ以下、その麾下達は戸惑いを滲ませて、ミーノスを見返す。 「ルネはラダマンティスと顔をあわせる機会が多いですからね。あの男も、ルネはきちんと認識はしていますが――」 そっと手を伸ばし。 傍らに立つルネの髪先を玩びながら、ミーノスは小さく溜息をついた。 「信じがたいことに、君の手前を味わいながら、あの男は君の顔をまともに見ていなかったそうですよ。まったく、無礼な男だとは思いませんか、地正星――いえ、アクェイ?」 困り果てた様相のルネには頓着せず、指先にその髪を絡めて遊びながら、周囲に控える内の一人に視線を投げかける。 ――冥闘士の大部分は、ミーノスが部下の個人名を認識していないと思っているが、実のところはそうではない。 トロメアに属する冥闘士の、雑兵に至るまで、ちゃんと名を記憶しているのだ。 だが、普段はその名を呼ばない。 何故なら。 「……………………そ……そんな、恐れ多い……」 ミーノスに名を呼ばれた瞬間、地正星アンドロマリウスの冥闘士は、びくり、と身を震わせ、蚊の鳴くような声で言葉を搾り出そうとする。 普段呼ばれない名を上官が呼ぶ時は、無理難題がセットについてくる率が極めて高い。 その所為で、アンドロマリウスは“アクェイ”とミーノスに呼ばれると怯えてしまう条件反射がついてしまっていた。 その様相に、ミーノスは優美に微笑み――ルネの髪を玩んでいた指先を離し。 「どうしました? そんなに恐縮することはないのですよ。アクェイ?」 アンドロマリウスの栗色の頭を優しく撫でた。 ひい、という言葉にならない悲鳴を、彼の両側に立つ、ダンタリオンとモラクスは確かに聞いた。 ――ミーノスが、たまにしか部下の名を呼ばないのは、こういう反応を見て楽しむ為に違いない、と、当事者達が考えているのも、無理はなかろう。 卒倒寸前になっているアンドロマリウスの頭を一撫でし、今度は、その傍らに立つモラクスの冥闘士にミーノスは視線を投げかける。 「カルロとて、一度カイーナに使いにやったことがあるのですから、顔を見たことがないなど、ある筈がないというのに」 背筋に冷や汗が流れるのを感じながら、モラクスは腹筋に力を入れて、上官の言葉に応じた。 「ワイバーン様にお目通りしました折は、法衣ではなく冥衣をまとっておりましたから、お記憶違いをなされているだけかと存じます」 その返答に、ミーノスは目を細め、小さく喉の奥で笑った。 「この冥府には珍しい、陽のような君の髪色を意識に留めていないと?」 闇色の冥衣とは対照的な鮮やかなスパニッシュブロンドに眼差しをやりながら、ミーノスがそう言えば、モラクスは、うっと言葉に詰まった。 「ファイアとて、そうです。この、炎そのものの紅い髪が視界に入らぬ筈がないでしょうに、ね」 横目でちらり、と視線を投げかけられ、アイニの冥闘士は表情には出さなかったものの、背筋は必要以上に真っ直ぐに伸ばしてしまった。 「けれど、一番許しがたいのは」 つい、と。 視線を動かし、ミーノスは、周囲に侍る五人の部下の中で一番小柄な冥闘士に眼差しを向けた。 「ルネの一番の補佐役である君を、あの男ときたら認識していないというのですよ」 そう言って。 すっと立ち上がり。 「どう思います、イレーン?」 ミーノスの肩にも届かぬ小さな頭に手を沿え、その黒髪を梳きながら、ミーノスはダンタリオンの冥闘士の顔を覗き込んだ。 間近の上官の双眸に、一度深く深呼吸をして。 ダンタリオンは全霊を込めて、こう応えた。 「ワイバーン様の視界に入らなかったのではないかと、存じます」 ぐっと手を握り締めて。 全精神力のすべてを振り絞り、ダンタリオンが返した応えに。 ミーノスは愉しげな笑い声を上げたのだった。 『今日のぱわはら。』(09年1月初出) |
「――駄目だ、見ていられない」 不意に。 そう呟いて、バイアンが差し出した手に、彼の側近であるケルピーの海闘士は、数度瞬いて、それから上官の顔を見返した。 差し出された手の意図が理解出来ないらしい、その様相に、バイアンは言葉を付け足した。 「どうにも、危なかしくて見ていられない。ここに移ってから」 この、新たな海洋神殿に海闘士達が改めて集って以来。 「段差を踏み損なうところをよく見かけるぞ」 それは、かつての、地中海の海洋神殿では、ほとんど見ることはなかった姿だった。 以前の海洋神殿は、何年もかけて身体でその内部構造を覚えていたのだろう。足取りに危なかしさなどまるでなかったが、今の海洋神殿では、どうにも足元が頼りない。 なるほど、移って間もないこの新たな海洋神殿では、まだ足で覚えるなどという芸当は出来る筈がない。 もとより、その視界は半ば見えぬも同然なのだから、慣れぬ場所で足元が覚束ないのも当然だ。 現に、今も、段数を見誤ったらしく、たたらを踏んでいた。 だから。 「せめて、階段くらいは手を引かせてくれ」 そう、手を差し出しながらバイアンが言えば、相手は目を丸くして彼を凝視する。 「……あの、バイアン様……」 そして困惑も露な声音が、その口から漏れた。 「気遣ってくれる気持ちは、勿体無いんですけど……」 言い淀み、俯く仕草に、「グラント?」と、バイアンが首を傾げる。 そして、あることに思い至ったらしく、バイアンは思わず声をあげた。 「大丈夫だ! わたしはそんなに痛い思いとか苦しい経験はしたことがない、……と、思う」 勢いよくきられた口火の割りに、語尾が力なく小さくなったのは、先の聖闘士との闘いを思い出した所為。 確かに、相手――グラントは、カノンに枷を施されているから、現状で接触テレパシーの能力が暴走することは無い。だが、過去の多くの経験上――これは、当人に聞いたわけではなく、状況などから判断したバイアンの推測だが――、生来の能力を可能な限り発動させまいとしていることは知っているし――理解もしているつもりだった。 だから、差し出した手をとらない理由を、バイアンに対して、不必要にその力を振るわぬ為に警戒しているのだと、そう解釈した。 の、だが。 「そうじゃなくて、……嫌なのは、バイアン様の方でしょう――?」 歯切れ悪く呟いたグラントの言葉に、今度はバイアンが瞠目した。そして、首を傾げながら訊き返す。 「わたしが? 何故?」 触れた相手の記憶や感情を読み取り同調して、辛いのはグラント自身であり、バイアンには何の苦痛もないだろう、と。言外に態度で告げれば、グラントはますます困り果てたような表情になった。 グラントにしてみれば。 普通、逆だと思う。 “グラントが触られるのが嫌”ではなく、“バイアンが触られるのが嫌”なのが、普通の反応だろう、と。 サイコメトリーでテレパスの手に、触れたいと思う人間がいる筈がない。それが当然だ。 なのに。 当たり前のように、手を差し出すのだから。 どこまでも、相手のことばかり思い遣るのだから。 ――どうにも敵わない。 「……お言葉に、甘えさせていただきます……」 おずおずと、躊躇いがちに差し出された手に、手を伸べれば。 バイアンはその指をまとめて握ると、足元に気をつけながら、ゆっくりと歩き出した。 『慈し手』(09年4月初出) |
――咄嗟に、応える言葉が見つからなかった。 常に絶やしたことの無い微笑をたたえたまま――同格の同僚には「ニュートラルの状態が笑顔」だと評されたこともある――、言葉を発さない副官に、アイザックが動揺に似た色をその隻眼に浮かべているのは分かっていたが。 オラフは……アイザックの問いかけに対する答えを、即座に返すことが出来なかった。 その問いをアイザックが発したのは。 アイザックの半面に刻まれた古傷を消す形成手術の為に、地上の病院に検診に訪れた帰り道でのことだった。 海界に戻る為に人目につかぬ場所に設けた《道》の出入り口に戻る道すがら、アイザックがすれ違ったものに目を留めたのは。 不思議そうな眼差しで、その後ろ姿を目線で追うアイザックに、疑問調で名を呼びかければ、視線をそのままオラフへと動かす。そして、自らの副官を見上げながら、アイザックはオラフにこう問うた。 『……どうして、あの人はあんな腹をしているんだ?』 訊かれ、背後を振り返れば、大きな腹を抱えた妊婦の後ろ姿が垣間見えた。 『ああ、妊婦ですね。あの大きさだと……そろそろ臨月でしょうか』 『妊婦?』 軽く首を傾げて、オラフが口にした単語を鸚鵡返しに呟くアイザックに、目を細めて言葉を添えた。 『お腹の中に子供がいるのです。あの女性には、あと一月足らずで、赤ちゃんが生まれるのですよ』 もう、十年以上昔に自らが味わった幸福感を思い出しながら、笑みを深めるオラフに、アイザックは何故か驚愕を目に浮かべる。 『どうやって、腹の中に子供を入れたんだ?』 『…………はい?』 想定外の問いかけに、思わず訊き返したのは――当然だろう。 『だって、子供だろう? 生まれてくるということは、生きた子供なのだろう? どうやって腹の中に入れるんだ? それに、腹の中の子供はどうやって呼吸をするんだ? 一ヶ月も食べ物はどうするんだ?』 信じられない、と言いたげに、矢継ぎ早に問いかけるアイザックに……オラフは笑顔のまま固まった。 この場合。 どう説明すればいいのだろう。 受精と着床のプロセスと妊娠出産の経緯だけでいいのか? どうやって精子が胎内に進入するかを訊かれた場合、事実をありのままに言って理解を得られるのか。あるいは、そこはぼかして誤魔化した方がいいのか。 いや、待て。 そもそも、男女の身体構造の違いを知っているのか? ……ああ、とりあえず。 「……どこまで。どこまで偏っているんですか――」 アイザックと六歳しか変わらないカミュを責める気はない。 むしろ、カミュを育てた“大先生”とやらの責任か? 否。 この教育方針の根本的問題は、もう、聖闘士個人というより、聖域自体が原因だと、うっかり確信してしまったオラフだった。 『○○の常識力』(09年4月初出) |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||