――頭上に広がるは、天ならぬ、幾重にも波打つ潮の層。 その、天にも似た海の波間に向かって伸びるは、七つの海を支える柱たち。 大海の重みに傾ぐこともなく、真っ直ぐに佇む白亜の支柱に、彼はそっと指先を伸ばし、その大理石にも似た柱の肌えに掌を沿わせる。 ふわり、と、立ち上るは、彼がまとう、神の闘士の証――人間の領域を超えた力の具現。 焔のように燃え上がりながらも、水の流れのように涼やかな小宇宙は、重ねられた彼の掌から、白亜の支柱へと注がれていく。 乾いた砂に水を注ぐように、大海を支える柱へと注がれ、満ちていく小宇宙は、布地が水を吸い上げるように、静やかに頭上に広がる広大な海へと昇り行き――。 そして、遥かな天にも似た波間へと届いた時。 波紋が広がるように、浄く澄んだ光となって、揺らめく潮の中に広がり溶けていった――。 大海を支える七つの柱。その柱を守護する七人の海将軍。 彼ら海将軍は、己の小宇宙を自らが護る大海の支柱へと注ぐことによって、それが護り司る海原の汚泥を浄化することが出来る。 それを可能とするのは、海界広しといえど――否、三界の何処を探しても、彼ら七人しかいないのだ。 幻想的であり、同時に、どこまでも神聖なその光景に、身じろぎや言葉を発することどころか、瞬きすらも惜しんで見入っていると。 「――用があるなら、早く言え」 振り返る必要もなくその気配を察したのか、背を向けたまま、感情を表さずに短くそう告げられた。 「何だ? 急の知らせでも入ったのか?」 肩越しに振り返り、常とは異なる様相に、小さく眉根を寄せて、訊ねかけられた。 「――どうした。急ぎの用か?」 振り返り、軽く目を見開いて、一言も言葉をかけることなくそこに在る意を問われた。 「……っ!? どうしたんだ?」 背後を振り返って、初めて存在に気付いたとばかりに、驚きもあらわな声音が投げかけられた。 「? どうか、したのか?」 背後へと視線を転じて、ようやくそこに居ることを知り、黙したまま控えていたことを訝しむ語調で声をかけられた。 「――? 何かあったのか?」 振り返った眼差しの先にあった、普段とは違う沈黙に、小さく小首を傾げながら問いかけられた。 「どうしたんだ? 何か用があったんじゃないのか?」 振り返りながら、何も語らぬまま佇む様子に、若干の疑念がこもった問いかけが投げかけられた。 この水底で最も浄 神に最も近い位置にある、己の上官に、笑みをたたえながらこうべを垂れる。 そして、彼の問いに答えるために口を開いた。 「お邪魔をして申し訳ありません。――」 『水底の清きは』(07年1月初出) |
――新しき年、その最初に昇ったばかりの朝日が、十二の宮をつなぐ階段から夜陰を払拭していく。 まだ、日の出を迎えたばかりの――起き出し外を出歩くには少々早い時間だったが。 早朝の日の光は、その階段をゆっくりと下る者の影を石段の上に描き出していた。 そうして、石造りの階段を下り、辿り着いたのは、十二宮の内の一つ。 コツリ、とその中へと足を踏み入れ――。 「――よう」 思いもがけず、声をかけられ、サガは目を見開いて振り返った。 そこには、夜着の肩に上着を羽織ったその宮の――巨蟹宮の主が、柱にもたれかかるような姿勢で立っていた。 「……おはよう、デスマスク。随分、早いのだな」 「いや、つーか、あんたの方こそ、夜中に何してたんだ?」 サガの自宮である双児宮は、巨蟹宮の一つ下。 だが、彼が巨蟹宮に入ってきたのは、その逆方向からで。 時間的にも不自然な立ち入り方に、当然沸いた疑問をデスマスクは口にした。 その問いに、サガは一瞬言いよどむように薄く口を開き――それから、小さく言葉を発した。 「いや……最初は、夜更けに目が覚めて寝付けなくなったので、少し外を歩いていただけだったのだが……」 言葉を選び選び、たどたどしく語ったところによると。 冴えた頭を持て余し寝直すことも出来ず、散策をしていたところ、アテナから“初日の出を見る”という日本の風習を聞き及んだアイオロスと遭遇し、誘われるまま、共に日の出を待つことになったのだという。 「…………三時間も、日の出を待ってたのか、あんたら」 サガの説明に、呆れたように呟き、デスマスクは苦笑とも失笑ともつかない形に口端を歪めた。 「だが、待った甲斐はあったぞ?」 軽く首を傾げて微笑するサガに、「そりゃあ、標高が高いからな、ここは」と思わず現実的に切り返す。 「何もかも浄化されるような――清麗そのものの光だった。あの光を浴びていると、生まれ変わったような気がする」 目を細め、そう語るサガに、まあ、一回死んで生き返ってるからな。ある意味生まれ変わったようなもんだよな、と、デスマスクは内心思った。だが、それを口に出す代わりに、別の言葉を声に乗せた。 「――そりゃ、良かったな。ところで、もののついでだ。コーヒーでも飲んでいくか? グリークコーヒーじゃなくドリップだけどな」 くい、と親指で私宮の方を指差して誘いをかけて、返答も待たず、デスマスクはくるり、と身を転じ歩き出した。 わずかに遅れて、二つ目の足音がそれに続く。 そして。 「――デスマスク」 「ん?」 「――わたしは……出来る限りそうならないように心がけはするが、おそらく、また……お前に色々と面倒をかけるだろうと、思う」 「別に、迷惑とは思ってねえよ」 「いや、お前がそう思わなくても、面倒というか……手間をかけさせているのは事実だ……。だが」 「だが、これからも、色々と……その、頼む」 思いもがけない一言に。 私宮へと進めていた足が止まり――思わず、数歩後からついてくるサガを振り返る。 立ち止まり振り返ったデスマスクにつられて、立ち止まったサガは、どこか困惑にも似た表情で眉を寄せながらも、真っ直ぐにデスマスクを見返していた。 ――かなり回りくどいが……回りくどいが。 まさか、“頼む”と言われるとは。 十三年以上経て、初めて言われた気がする。というか、ほぼ間違いなく初めてだ。 「……時間の流れって、すげえな」 甦り、もう二、三ヶ月で一年に届こうという、時の経過がもたらしたものに。 思わず、感嘆の呟きをもらさずにはいられない、デスマスクだった。 『曙に』(07年1月初出) |
くるくると。 麺棒を駆使して、粉をこねた塊を薄い掌大の円形に伸ばしていくデスマスクの手元を、サガはわずかに目を見開いて――ぽつり、と感嘆にも似た呟きをもらした。 「――器用だな」 「そうか?」 打粉で白くなった指先で広げた皮を摘みよけて、また次の皮を伸ばしながら、デスマスクは小首を傾げる代わりに軽く眉尻を上げてみせる。 その応えに、サガは一つ頷いて、言葉を付け足す。 「手際も良いと思うが、何より、レパートリーが広い。作れないものがないのではないかと思うぞ」 「んなわけ、ねえだろ。いくらなんでも、何でもかんでも作れねえよ」 大仰な評価に苦笑をこぼせば、疑わしげに眉根を寄せて、更に言葉を続けられた。 「――東洋料理を得意とするイタリア人は多数派ではないと思うが……?」 デスマスクの指示通り、中に包むタネをこねていた手を止め、小さく首を傾げたサガの言に、デスマスクは手を休め、再度苦笑する。 「……まあ、それは否定しねぇけどな」 サガの言うとおり、蒸篭や中華鍋、中華包丁を使いこなせる――料理人でもない――イタリア人はそうそういないだろう。 ましてや、生国のイタリア料理は勿論、ギリシア料理もスペイン料理も北欧料理もレパートリーに加えているわけだから、サガでなくとも、デスマスクに作れない料理はないのではないかと思っても……無理はあるまい。 「オレの場合、師匠の所為っつーか、おかげ、だろうな」 「シジョン師範の?」 不意打ちで出てきた、デスマスクの師であり、老師こと天秤座の童虎の弟子でもあった男を示す代名詞に、サガが軽く目を瞬かせると、デスマスクは苦笑気味の表情のまま、わずかに頷いて言葉を続けた。 「生きている以上、食わなきゃいけねえし、身の回りのことだって自分でしなきゃ駄目だ、ってな。自炊と自活は聖闘士である前に人間としての必要最低限のスキル、なんだと」 「――その主張は納得出来るが……お前の力量は最低限というラインではない気がするが……」 小さく眉根を寄せてサガが呟くと、デスマスクは苦笑しながら手の届くところにおかれた瓶詰めに手を伸ばした。 透明な瓶に白い指紋が付着するのに、ほんの少しサガの眉間の皺が深くなる。 もっとも、当のデスマスクは、粉の汚れなど後で拭き取れば良いとばかりに無頓着に蓋を捻 「美味いほうが、食い甲斐があるだろうし――」 そう言いながら、瓶の中からピクルスを一切れ取り出すと、それをサガの口元へと差し出した。 口元へ示されたそれに、困惑したように眉尻を下げ……しばし躊躇した後、ためらいがちに、カリ、と一口齧る。 「美味いって喜んでもらえるほうが作り甲斐もあるだろ?」 行儀の悪い所作を強いられたことに若干の不満を示していたサガの表情が、咀嚼する内にわずかに緩んだことを見て取って、デスマスクはそう言葉をつないだ。 「美味い?」 にやり、と笑って問いかけるデスマスクに、サガは小さく苦笑して、そっと頷く。 「ああ。お前が作ったものが不味かったためしはない」 その返答に。 デスマスクは愉しそうに口端を持ち上げ、目を細めたのだった。 『巨蟹宮料理教室3』(07年2月初出) |
目前の有様に。 カノンはわずかに目を細め、呆れにも似た溜息をひとつこぼした。 ここは、海皇神殿からメインブレドウィナへと続く道行の、その終点近く。 以前の海洋神殿とは異なり、両の道脇には、連なる柱の間を水流が薄幕のように落ち続ける仕掛けが施されてあり、そこを過ぎると十段ほどの石階段があり、それを上がると道幅が開け、ちょっとした広場のようになっている。 その、石階段の様相に、若干問題があった。 カノンが見下ろすその先には、かすかな寝息をたてる生き物がふたつ。 石段に崩れるように座り込んで、瞼を閉じているのは――十歳年下の海将軍と、十四歳年下の海将軍の二人だった。 ――鍛錬に出て随分経つのに戻らないと。 困惑した様子で、海皇の玉座の間の前で立ち尽くす、北氷洋と北太平洋の副官達を見かけたのは、ほんのつい先頃のこと。 既に数時間も経つのに未だ帰らぬそれぞれの上官を、呼び戻しに行くべきか否かと、二人が迷っているところに(運悪く?)行き当たってしまったのだった。 気にかかるのならば迷ってなどいないでさっさと見に行けばよい、とカノンは思うのだが――実際口にも出したわけだが――最近、年少の海将軍達が鍛錬場に使っている広場は、玉座の間を抜けねば行くことが出来ない。メインブレドウィナへ行くには玉座の間からしか行けないのは、以前の海洋神殿と同じ造りだ。 今現在、海皇の現し身であるジュリアンは海界を留守にしているが、主が不在とはいえ、主の居座を勝手に通り抜けるのはどうにも抵抗があるのだというのが、彼らの弁だった。 下らぬことを気にする、と、カノンは思うのだが、聞かされた不在の時間の長さは、確かに素通りするには気にかかる長さだった。 アイザックはともかく、バイアンの身体的限界値は超えているだろう、と想像するには充分な時間数に、放ってもおけず、様子を見に足を向けてみたわけだが――。 何のことはない、体を動かし、程よく疲れが出てつい転寝をしてしまっただけであったらしい。 「……無駄に騒いだだけではないか」 心配性――あるいは過保護な二人の副官達の顔を思い浮かべつつ、呆れかえった呟きをもらしながら。 実年齢より幼い寝顔を晒すアイザックとバイアンを、どう起こすのが妥当かと、とりあえず考えてみるカノンだった。 『ある昼下がり』(07年4月初出) |
……はむ。 大きく口を開け。 まだ温かな湯気をたたせる包子を頬張り、「うまいのう〜」と、眦を下げながらもごもごと口を動かしていたら。 「――教皇宮を尻に敷くとはよい度胸よの」 げし、と。 後頭部を踏みつけられた。 「何をするんじゃ、シオンよ」 頭を足蹴にされ、強制的に俯いた姿勢をとらされたまま、童虎は二百数十年来の同輩に抗議の声を上げた。 だが、しかし。 「口にものを入れたまま喋るでないわ。東洋人は礼儀も知らぬか」 シオンはその抗議を一蹴し、ついでに童虎の後頭部に乗せた足に更に力を込めた。 「……シオンよ、では、他人の頭を踏みつける行為は礼儀にかなっておるのか?」 とりあえず、ごくん、と咀嚼していたものを飲み込んで、童虎がツッコめば。 「教皇宮の屋根 冷ややかに切り返し、つま先で童虎の後頭部を一蹴りする。 ようやく開放された後頭部を撫でながら、童虎は同輩の言動に愚痴にも似た呟きをもらした。 「……よいではないか、けち臭いの〜」 「吝嗇云々の問題ではないわ」 ごつん、と一撃――一応は軽めに――拳をお見舞いして、ちらり、と、童虎が膝の上だの己の周囲だのに広げているものに視線を向けた。 見慣れぬ器――蒸篭である――に、白くふわふわしたものが何種類か入れられ、湯気をたてていた。 その視線に気付き、童虎は膝の上に乗せた蒸篭を抱え込み、冗談めかした語調で口を開いた。 「やらんぞ」 「いらぬわ」 それを、シオンは怜悧な口調であっさり切り捨てる。 「――デスマスクか」 「? よう分かったのう」 ぽつり、と。それらの製作者の名を呟いたシオンに、童虎は軽く目を丸くして、言外に肯定する。 「分からぬ筈があるまい。この十二宮に東洋料理に馴染みがある者など、お主とあやつ以外におるものか」 簡単過ぎる推測の結果だと、見下ろすシオンに、「確かにそうじゃな」と童虎は笑った。 「久方ぶりに中華が食いたいの〜、と言うて作ってもらったんじゃ」 「――ほう? 十日ほど前に五老峰に戻っておったと思ったが、それは私の気のせいか?」 皮肉げなシオンの切り返しに、童虎は軽く腕を組んで、うーむ、とうめく。 「分からんかのう、春麗の料理も無論、美味いのじゃが……、わしは、春麗の味ではのうて、時鐘の味が食いたかったんじゃ」 今現在、生きて彼の地にいる養い娘の手料理ではなく。 もうこの世にはいない、亡き弟子の味が懐かしくなったのだと。 そう告げれば、同輩は冷淡にこう言いきった。 「感傷が過ぎるな」 「……たまにはよいではないか」 「そなたが感傷に浸るのは勝手だが、他の者を巻き込むのはやめろ、と言っているのだ」 シオンの、いかにも教皇らしいお言葉に、童虎は軽く首を傾げて言い返した。 「――楽しそうに作っておったぞ?」 ……。 一瞬の沈黙の後。 話題の人物が嬉々としておさんどんに勤しむ姿を想像し、シオンは大きく溜息を吐き出しながら、こう呟いたのだった。 「……黄金聖闘士の威厳はどこにやる気だ、奴は……」 『巨蟹宮料理教室3・その後のはなし』(07年4月初出) |
仮初の姿を脱ぎ去った、ただ今の冥府において、その役目を執行する場――死者を裁く法廷は、アケルシアスの湖の畔にある。 場所や意匠は多少面変わりしたが、そこを預かる代行官もその補佐を務める面々も、そして、その役目も以前と変わりはしない為、その法廷は以前と同様の名称をもって、裁きの館、と呼ばれていた。 その、裁きの館の一室において。 ラダマンティスは、何ゆえ己が此処にいるのかと、真剣に考え込んでいた。 きっかけは、ほんの数十分前に遡る。 近頃日課となりつつあるパンドラの様相を窺いに行った後、偶然にアイアコスと行き会った。そして、どういう話の流れでそ うなったのか、今もってラダマンティスには謎なのだが、邪気のない笑顔と共にアイアコスがこう言い出したのだった。 「裁きの館で茶でも飲もう」 ――仕事ではなく、茶を飲みに行くのか? 理解不能の発言に、ラダマンティスが呆気に取られている内に、何故か目的地に連れ込まれる羽目になっていた。 ……やはり、どうして此処にいるのか、さっぱり分からない。 ラダマンティスに分かったことといえば――彼らの応対を務めるのが、雑兵ではなく、ルネの補佐として冥府の裁きを為す冥闘士の一人であったことと、迎えたミーノスの部下達の態度から、アイアコスが“裁きの館に茶を飲みに来る”のが、甦る以前からあったことだということくらいだった。 ……結果的に、わざわざ彼らの仕事を中断させている現実に、無性に申し訳なく思えたラダマンティスだった。 それから、何故、裁きの館に自分達が通された、応接間のような部屋があるのか、も理解出来ない。――何の為に必要なのだ、この部屋は? 疑問符を心中に抱きながら、ラダマンティスは複雑な無表情で、彼ら二人を応対するミーノスの部下の一人に、ちらりと視線を向けた。 ラダマンティスの複雑な心境を宿した視線と、アイアコスの待ち遠しげな眼差しを受けながら、ミーノスの部下は、華やかな絵付けが為された白磁のティーポッドに湯を注ぎ、ドーム状の布地の覆いを被せ、コトリ、と砂時計を返し置く。 作法事には関心のないラダマンティスだが、今目前ではきちんとした手順で淹れられていることぐらいは察せられた。 そうして、茶葉を蒸らすという一手間を惜しまずに淹れられた茶がティーカップに注がれ、二人の前に恭しく供された。 「ミーノス様のお好みに合わせたものですので、ラダマンティス様のお口に合うかは分かりませんが」 という一言を添えられ、出された茶器に口をつけ――ラダマンティスは軽く目を見開いた。 「うん、相変わらず美味いな」 満足げに笑みを浮かべながらのアイアコスの言葉に、ラダマンティスも思わず頷く。 「確かに、美味いな――」 俺には上品過ぎるくらいだ、と、続く呟きは言葉には出さず、手にしたティーカップに視線を落とす。 品物の良し悪しには詳しくはないが、今出されたものが大衆向けのものではないことくらいは察しがついた。 なるほど、アイアコスがわざわざ茶を飲む為だけに足を向けるのも頷ける味と香りではある。 が。 ――ミーノスよ……。お前は何に手を込んでいるのだ? 先のミーノスの部下の言いようから察するに、ティーセットも茶葉も淹れ方も、ミーノスの嗜好に合わせたものであることは間違いないだろう。 自他共に認める朴念仁であり、実用一辺倒の思考を持つラダマンティスには、仕事に無関係の部分に力を入れる思想は、理解の範疇外にあるといっていい。 改めて、彼の天貴星が自身と対極の位置にあるのだと思わずにはいられなかった。 ――実は、応接間の家具一式も、ミーノスの美意識とこだわりの粋を極めて集められたものだと、ラダマンティスが知るのはもうしばらく先のことであり……その資金源が何であるかについて考えを巡らせてしまい頭痛を覚えるのも――後の話である。 『ティータイム』(07年4月初出) |
「……随分、気があっているのだな」 その一言は。 デスマスクにとって予想外の発言であり。 思わず目を丸くして、発言者の方を振り返ると、その相手はそっと首を傾げて「違うのか?」と小さく問うた。 「どちらかといえば頻繁にやり取りをしているだろう? だから、気があっているのだろうと思ったのだが……?」 ちらり、とデスマスクの手元に視線を投げかけながら、サガはそう思った根拠を告げた。 甦る以前は、聖域内でそのスキルを見る機会も環境もなかったから知らなかったが、存外、デスマスクは機械に強く。 今も、膝の上に乗せたノートパソコンを――聖域の外では以前から使っていたらしい――手元に目をやることもなく、キーを操っている。 聖域の外に出たことがない、完全なアナログ派のサガには感心するばかりなのだが。 デスマスクが、先ほどから作成している文章を送り先は、海界。 正確には、海界に属する海将軍の一人、リュムナデス。 文面自体は、昨今の政治情勢がどうの、国家紛争がどうの、といった類のものばかりで――親密といっていいのかどうか判じがたいが、やり取りの頻度で見れば、充分、交流が深いといえた。 その、表面上のやり取りから思ったことを率直に告げただけだったのだが……意外の念を隠さず見返すデスマスクの様相は、サガにとっても想定外だった。 しばし、沈黙と共に視線を向け合い。 その静寂を破るように、デスマスクが苦笑の要素の強い笑みをこぼした。 「気があうとかあわねえとかじゃあねえな」 がしがしと、自身の髪を掻き乱し――そして、にやり、と口端を持ち上げて笑いながら、少し声を低めてこう続けた。 「どちらかといやあ、探り合いだろうよ」 笑みの裏側に匂わせた意を、読み違うことなく受け止め、サガは表情と語調を抑え、言葉を返す。 「……この文面で、相手の情勢が掴めるのか?」 親密な態度は表向き、実のところは相手の些細な言葉尻から情報を引き出そうとしている関係だと。 言外の説明に、当然覚える疑問を口にすれば。 口端を吊り上げ、おどけたような声音で答えが返る。 「そこはそれ、こっちの腕次第ってトコで」 その言葉に。かすかな吐息をこぼし、呟くように一言漏らす。 「――お前は……いや、お前達は、この同盟関係を永続的なものだとは思っていないのだな」 “永続的な友好関係”は、サガ個人にとっては――そして、カミュにとっても――望ましいものだが……だが。 結果的に、十三年間聖域を背負ってきた彼らには、必ずしも事態がそれを定着させてくれるという、希望的観測だけを持てなかった。だからこそ、デスマスクの言い分に納得出来た――出来てしまった。 「今のところは、敵を少しでも減らしておこう、程度の不可侵条約だろうからな。――お互いに」 疑問ではなく確認の問いかけに、目を細め、口端だけを持ち上げて、デスマスクは肯定の言葉をつむぐ。 「今はまだ不確定要素が多過ぎる。情勢がどう変わるかなんて、誰にも分からねえだろうよ。一番の不安要素は、オレ達を生き返らせた“何者か”だ」 「……そうだな。何らかの意思を持ち、能動的にそれを行ったものがいる筈だが――しかし」 「にしては、何のリアクションもねえのが気になるよなあ」 緊迫感のないモラトリアムに安穏と浸りきるには、目を背けきれない“何者か”の意図。 それさえ除けば、生ぬるいほどに平穏なのだが。 「……今度こそ、ヤバくなったら逃げるか?」 本気なのか、冗談なのか。そんな一言をサラリ、とデスマスクがこぼす。 それに対するサガの返答は。 「馬鹿者」 憮然とした口調の呟きと、軽く小突く拳の一撃だった。 『海と山の狐狸』(07年5月初出) |
ちり……ん……。 風に吹かれ。 執務室の片隅に吊るされたガラス細工が涼しげな音を響かせた。 その音色に、アイザックは書類にサインを入れる手を止め――顔を上げた。 美しく彩色を施された楕円状の球形をしたガラス細工は、アジアの民芸品だと聞かされた。 それが、アイザックの執務室に吊るされたのは数日ほど前のこと。 部下達がなにやら賑やかにしていると思ったら、部下達の執務室と、続き間になったアイザック自身の執務室の調度が幾つか変えられていた。 扉は開け放たれ、目隠しに籐編み作りの衝立が置かれ、あるいは、簾がかけられていたから、何事かと訊ねると。 ――もうじき暑くなりますから、風が通るようにしたのですよ。 微笑んで、そう答えられた。 それから。 ――これは、アジアの民芸品なのだそうですよ。 ――風が吹くと、綺麗な音をたてるんですって。 ――なんでも、その音を聞いて暑さで苛立った気持ちを宥めるんだとか。 口々にそう言って、それ、はアイザックの執務室に吊るされた。 最初に、それが風に吹かれて音を響かせた時。 ――氷が、小さく砕けて落ちたようだな……。 アイザックがぽつり、と呟くと、部下達は、お気に召しましたか、と目を細めて微笑んだものだ。 その後で。 南氷洋の、カーサの副官の口から、北氷洋の海闘士達があちらこちらで暑気対策の方法を何かと聞き込んでいたと、知った。 昨夏は――最初に迎えた海界の夏は、負った傷の為まだ身体が万全でなく、海界の蒸し暑さが特に身に堪えたことを覚えている。 だから。 ……それが――それらが、誰の為なのか、察せられない筈がない。 きゅっと。 手にしたペンを握り締め、アイザックは目を伏せる。 どうしようもなく、申し訳なく思ってしまうのは、こんな時だ。 一年――。一年の間、クラーケンであることを――海闘士であることを、拒絶し続けていたのは、他ならぬアイザックだというのに。ずっと、否定され、背を向けられ続けていたというのに――――。 大切に――本当に大切にされていることは、振り返ればすぐに気付けることだった。 そっと、視線だけを隣室へと続く――開け放たれた戸口へと向ける。 ……きっと。 再び戦いがおこり、この身が水底に沈むことになろうとも、自分は後悔しないだろう。 いや、むしろ――。 自分から選ぶだろう。 ここに集う仲間達と――自分に従う部下達と命運を共にすることを。 「アイザック様」 まるで、見えない壁越しにアイザックの視線を感じたかのように、部下の一人が戸口から顔を覗かせる。 「何か、冷たいものでもお持ちしましょうか?」 かすかに微笑んで、そう訊ねる部下に。 「ああ――。貰おうかな」 笑みを返して、アイザックは頷いた。 『夏の訪れ』(07年7月初出) |
「……遠いな」 いつもの、料理指南の後。 作った料理を共に食していた時のこと。 ぽつり、とこぼしたサガの呟きに、デスマスクは何のことだ、と首を傾げる。 問い返せば、サガは小さく吐息をこぼして、先の発言に言葉を付け加えた。 「いや……中々お前ほどには上達出来ないな、と思っただけだ。同じレシピの筈なのに、まるで味が違う」 そっと寄せた眉間に微細な口惜しさをにじませながら、そう言ってサガはかすかに視線を手元に落とす。 本日のメニューは、夏場、ということもあって、コンキリエ・リガーテを使ったツナの冷製パスタとサラダであっさりと軽めにまとめてみた。 「別に、あんたも下手じゃねえぜ? ……まあ、たまぁに、意外性はついてくれるけどな」 サガの料理の腕前は、――時折突拍子もないことはしでかしてくれるが――基本に忠実で下手ではない。 手際の良し悪しについては、数をこなして慣れるしかあるまい。 むしろ。 「オレは結構美味いと思ってるけどなあ?」 家庭料理の範疇ならば、充分“美味しい”。 対するデスマスクの腕前は、口にした者全員が玄人裸足と認める腕前なのだから、比較対象にするには適切ではないだろう。 「いいや。雲泥の差だ」 生真面目に言い切って、それから、溜息をひとつつく。 「――拳の修行ならば、鍛錬に費やす時間を増やせば済む話だが……こればかりは、こなす場数を増やすにも増やしようがない」 サガは元々からして努力を厭う性格ではない。むしろ、努力を尊ぶ型の人間だ。 しかし、こと、調理という対象においては、その努力の結果である料理を食して片付けねばならない以上、とにかく作ればいい、というわけにはいかない。 そう呟くサガの言葉に答えようと口を開き……かけた時、デスマスクの記憶の糸に何かが引っ掛かった。 「……あ」 そして、不意に何かを思い出したように声を上げた。 「そういや、昔、師匠に訊いたことがあったな。手際がよくなるコツってあるのか、ってな」 連鎖反応的に思い起こされた過去のやり取りを口にすれば。 サガも興味をひかれたように、軽く瞬いた。 「ほう? それで、シジョン師範は何と答えたのだ?」 弟子には必ず自活と自炊を身に付けさせることをモットーとしていた、デスマスクの師であり老師の弟子でもあった人物は、自身もまた弟子に負けず劣らずの料理上手だった。 サガ自身は、その腕前を味わう機会はなかったが、彼に師事した者は皆、師の腕前の確かさに太鼓判を押していた。 「まあ、基本は手際がよくなるには慣れるのが一番、だそうだ。あとは……」 そこでなにやら意味深に言葉を切り。 デスマスクは、にやり、と片頬を持ち上げ、笑った。 「『美味しいと喜ばせたい相手を作ること』だとよ」 悪戯っぽい口調で告げたデスマスクの答えに、サガは軽く目を見開く。 「老師を喜ばせて差し上げたい一心で腕を磨いたうちの師匠らしい真髄だろ?」 くつくつと喉の奥で笑いながら告げるデスマスクに。 サガは少し困った顔で微笑んで。そっと首を傾げた。 ――遠い五老峰の地で。最も若い弟子と養い娘の元へと出かけている童虎が、その時、くしゃみをしていたかどうかは定かではない。 『巨蟹宮料理教室4』(07年7月初出) |
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