ゴホ、ゴホ……。
 熱を孕んだ乾いた咳が小さくこぼれ。
 無意識に自身がたてた音に、カーサは薄く瞼を上げた。

 ――冬場の三徹は、自分でもまずかったと思うのだ。
 だが、大学のレポートを仕上げる為に必要だった資料文献の入手に手間取った所為で、製作日数がかなり厳しかったのも事実だった。
 それに、南氷洋は諜報方の総括も兼ねているから、海界の中では筆頭直属の北大西洋と並んで忙務なのだ。
 海将軍としての通常業務と、学生としての義務の双方をきっちりと果たす為には睡眠時間の削減は必要だった。――なにせ、海闘士としての義務と地上での一般市民生活の両立は、筆頭殿からの厳命でもある。
 その結果として、期限どおりに仕上げた論文を提出した翌朝、カーサはベッドから起き上がることが出来なくなっていた、というわけだ。
 そのままならば、カーサは解熱剤だけ飲んで取り合えず寝ていただろう。
 しかし、幸いにも定時に海界に現れない上官を案じた部下が、《道》で海洋神殿と直結している地上のカーサの部屋まで様子を見に来、海界から元内科医の海闘士を引っ張ってきてくれた。
 そのおかげで、あまり効果の見込めない自然治癒力に頼る、という病状回復処置は免れたのだった。
 診断結果は、人類永遠の宿痾――風邪だった。
 インフルエンザでなかったことは不幸中の幸いだったが、発熱が酷かった為、未だ床上げ出来ずにいたのだった。
 寝付いて今日で四日目。
 海界に風邪菌を進入させるのを防ぐ為、発見者である部下と医者の前歴者以外の立ち入りはカーサ自身の意思で禁じてある。
 特に、海将軍年少組――カーサ曰く、“お人好しのぼうや達”――は現在、完全立ち入り禁止状態だ。

 ――……止めなきゃ、毎日でも様子を見に来るだろうからなぁ……。

 熱でぼう、とする頭の片隅で、ぼんやりとそんな言葉を紡ぐ。
 朝に測った体温は摂氏37.2度。
 それでも、初日の39度近い高熱に比べれば大分下がってはいる。が、平熱が35度台のカーサにはまだ辛い熱だ。

 ――……アイザックは風邪ひかなさそうだがなあ……。あー……。カノンもひかねえかもなあ……。

 シベリア育ちと、スニオン岬の水牢で見事生き延びた同僚達である。風邪をひくような身体はしていないだろう。だが、万が一、ということもある。
 大体、海界のようなある意味隔離された環境で、風邪菌が蔓延したら大変だ。
 うつさない為には近づけないことが一番手っ取り早い。
 しかし――。

 ――……そろそろ、起きねえとマズイよなあ……。特に、バイアンだのアイザックだのあたりが……。

 おそらく、相当心配させてしまっているだろうという自覚はある。
 カーサとしては、36度台まで熱が下がれば業務復帰したいところだが――おそらく、部下達が完全に治るまで仕事をさせないであろうことも予測がついた。
 依然、食欲はわかない。
 それでも、スープもろくに喉を通らなかった初日に比べれば、随分マシになっているのだ。
 ポタージュ、粥、オートミール、と、食卓に出されるものも少しずつ固形物に近付いている。

 ――……早く、治さねえとなあ……。

 思考が拡散していく脳裏で、そんな考えを描きながら、カーサは瞼を閉じて静かに眠りに落ちていった――。


 彼が、他の海将軍達が代わる代わる、毎日のように南氷洋の執務室にカーサの病状を窺いに来ていたことを知るのは、あと三日ほど後のことである。



『風邪』(06年1月初出)
卒論製作時に資料集めで苦労したというの苦労談を聞いて思いついた、発展応用ネタ(失笑)
 そっと、光沢のある柔らかな布地を開く。
 サテンのような布にくるまれていたのは、漆黒の鞘に収められた一振りの日本刀だった。
 黒光りする鞘は、くろがねのように艶めき。
 鈍い銀光を弾く鍔は、彫りの一筋一筋に至るまで丁寧に汚れを取り去り、磨き上げられていて。
 その全体に――おそらくは、収められた刀身も――手入れが行き届き、それが如何に大切に扱われているか。そして、その持ち主が几帳面な気質であることさえ伝わってくる。
 いつでも実用品としてでも扱えそうなほど手入れが行き届いてはいるが、その刀――正確には、長さから察するに脇差――は、紙縒こよりで鍔と鞘とが結わえられていて、鯉口がきれぬようにされていた。
 しゅるり、と覆っていた布地を解き、ずっしりと重い脇差を手に取り――シュラは小さな吐息をこぼした。

 ――聖闘士の持ち物には相応しからぬものなのだが、それを手放す気には――手放すわけにはいかないものなのだ。
 その刀は、シュラにとっては師の形見ともいえるものだった。
 師にとってもそれは、亡き肉親から受け継いだ大切な品だとかで、どれほど手放すように言われても頑として所持し続けていたのだと、聞いたこともあった。
 そして、ピレネーの山中で過ごした修行の日々の中で、これには父祖の魂が込められているのだとも語っていた。
 その、師にとっての肉親の形見の品は今は弟子であるシュラの手元にある。
 師の下を巣立った日――聖域へと送り出されたその時に、最後の教えだとの言葉を添えて師はそれをシュラへ譲り渡したのだった。

 ――鞘から抜き、ものを斬るのならばこれは武器だ。
 磨き上げ部屋に飾れば、調度品にもなるな。
 ただの鉄の塊と見る者もいるだろう。
 だが。
 持つ者にとっては、誇りを具現化したものであり、魂そのものともなる。
 ……これは、師としてお前に諭す最後の教えだ。受け取れ。

 そう言って手渡された一振りは、今となっては師の形見といっても過言ではないものとなっていた。
 師とは、その日以来会っていないからだ。
 当時、師はまだ四十歳にはなっていなかった筈だが、既に戦士として闘える年齢ではないと考えていたらしい。
 シュラの育成を修了した時に、聖衣を返上し、そのまま聖域を去っていったのだった。そして、彼が育てた弟子達の誰も、師のその後を知らない――。

 師の大切にしていた品だ。だから、実用品として使うことはなくともおろそかには扱わず、手入れは欠かさずにいる。
 そして、手入れのたびに師の別れ際の言葉を思い返してきた。
 そうやって、十年以上の間に何度もその言葉の意味を考え――近頃、シュラはこの刀に込められた意味について、ひとつの仮説を抱き始めていた。
 扱い方、見方によって価値の変わるもの。
 つまり、聖闘士の持つ力もまた、力の振るい方によっては正悪いずれにもなりえるのだと。
 常に、己の力をどう扱うかを考えろと。
 そういう意味ではないか、と考えるようになった。
 ――それが、正解かどうかを答えてくれる者は居らず、きっと永遠に仮説のままなのだろうが。
「……師よ。貴方の最後の教えは、難しすぎます」
 溜め息をひとつこぼして。
 シュラは鯉口を結わえる紙縒りを馴れた手つきで解き始めた――。



『形見』(06年1月初出)
多分、黄金の師匠'sを最初に書いたもの。ハヤト師範のご先祖様は下級藩士という裏設定。
 右を見ても。
 左を見ても。
 前を見ても、見えるのは遥かな地平線の彼方まで広がる平原ばかり。
 後ろを見れば。
 うっそうと茂る黒ポプラの森があるばかり。
 上を見上げれば。
 幽冥エレボスの闇が広がるばかり。
「……ここは、どこだ」
 四方をゆっくりと見回し。
 シルフィードは眉間に深い皺を刻み、呻くようにそう呟いた。

 先の聖闘士との戦いの後、再びの生を与えられた冥闘士達の目前には、かつての冥界とは異なる冥府の姿が広がっていた。
 かつての冥界は冥王がその力をもって、元来存在していた冥府の上に作り上げたものであったらしい。
 本来の姿を晒す冥府は、かつての冥界のような陰惨さも血生臭さもなかった。その代わり、虚無とでもいおうか、倦怠感にも似たものを感じずにはいられないのだが。
 ともあれ、あらゆるすべてが姿を変えてしまった冥府が、そこで生を営む冥闘士達に些かの混乱を与えてしまったのは事実だった。
 かつての冥界であらば各々の獄で景色を異とし、己の現在地を認識することに労はなかったのだが。
 今の冥府は――アスポデロスの野が広がるばかりで、変化に乏しすぎた。
 どこまでも続く地平線。
 複写した景色をつなげているだけではないか、と思うほど同じ景色が続くばかり。
 時折、靄にも似た影が揺らめく以外は、変化といえるものなど無い。
 耳に届く音も、鳥の亡霊がさえずる声や、死した獣の幻がか細くあげる鳴き声、そして、冥府の河や泉が静かに流れる水音くらいのものだ。
 成る程、オデュッセウスの前に現れたアキレウスの霊が「死者達の王となるよりも地上で小作人になった方がましだ」と嘆いた気持ちも分からぬでは無い。

「――道は、どこにあるんだ……」
 溜め息交じりに、呟きを吐きこぼす。
 単調な景色の続く冥府の中で、唯一の目印ともいうべきものは一筋の道だった。
 冥府の表玄関から冥王の館へ――そして、タルタロスやエリュシオンへ――と続く、その道。
 それを、見失いさえしなければ、シルフィードは今このように途方にくれることはなかったのだ。
 以前の冥界が懐かしい。
 そんなことを思いながら、シルフィードは再度嘆息をこぼすのだった――。

 同じ頃。
 冥府から続く道を進んだ遥かな東の彼方。
 そこにあるのは見上げるほどの青銅の扉と。同じだけの高さのある青銅の囲い。
 重く厚い青銅の扉の、その上辺は幽冥エレボスに包まれ視認出来そうにない。
 その両開きの扉の前で、立ち尽くすゴードンの姿があった。
 巨大な青銅の扉を見上げながら。
「――一体、ここはどこなのだ」
 途方にくれた語調でミノタウロスの冥闘士が、奇しくも同僚のバジリスクと同じ呟きをこぼしていたことを。
 知る者は未だいなかった……。



『地平線の彼方』(06年2月初出)
冥闘士の中でもこの二人は方向音痴っぽいよね、という雑談から発生したネタ。
「やはり、基礎からきちんと鍛えなおしたいと思うんだ」
 地中海の海洋神殿から、新たに海闘士が再度集結してまだ間もない頃。
 以前とは異なるこの海洋神殿を、新しい拠点として使用する為に色々と手を加えていた最中のことだった。
 作業をしつつ、今後のことを徒然に話していた流れの中で、バイアンがふとそう言ったのは。
「鍛えなおす、とは?」
 その呟きを聞きとがめ、ソレントが聞き返すと、バイアンは神妙な顔で一同を振り返り、更に言葉を続けた。
「確かに、小宇宙の扱い方は教わったが、身体の方はちゃんと鍛えたことがないんだ」
「……言われてみれば……。わたしも鍛えたことはないなぁ」
 バイアンの指摘に、イオが首肯し、ソレントも口元に手をあてながら呟く。
「――確かに。わたしもスポーツだの格闘技だの、そういったものを本格的にやった覚えはないな」
 楽器演奏も実は体力を必要とする。
 だから、ソレントもそれなりに運動や筋トレをしているのだが――多分、いや、間違いなく、戦闘向けの鍛え方はしていない。
「クリシュナはどうだ?」
「うむ――」
 話をふられ、クリシュナも手を止め考え込む。
「鍛え始めたのは海界に来てからだな」
「そりゃあ、そうだろうよ。オレ達だけじゃなく、ほとんどの連中がそうだと思うぜ」
 こちらは手を動かしながら、横合いからカーサが口を開いた。
「全員の前歴を承知してるわけじゃないがな、少なくとも格闘技を本格的にやってた奴はいない筈だぜ。たしなむ程度ならいるだろうがな」
 そこまで言うと。
 ちらり、と“特異な”前歴持ちの同僚二人に横目で視線を向けた。
「ましてや、コレ、レベルなんて例外中の例外だろうよ」
 “例外中の例外”と太鼓判を押され、アイザックは手を止めて――なんとも言いがたい困惑の表情で、早々に視線を外して作業を続けるカーサの後ろ姿を見返した。
 もう一人の方は、と言えば、背中に無関心を背負い、先刻から中断なく作業を続けていた。
「うーん……。否定は出来ないな」
 カーサの言葉に、イオも軽く微苦笑を浮かべて同意の語を呟く。
「つまり、我々もカノンやアイザックのように肉体的にも鍛錬を積んだほうがいいのではないか、ということだな?」
 それまでの発言を総括し、クリシュナがそう結論付けると、バイアンも大きく頷いて肯定した。
「ああ。実戦経験の不足はともかく、基礎体力が劣っているのは否定出来ない事実だろう?」
「確かに一理あるな」
 その言葉にソレントも同意を示す。
 そこで初めて、カノンが口を開いた。
「――一朝一夕にどうにかなる問題ではないが――。意欲があるのは悪いことではないな」
 そう言うと。小さく吐息をつき、元聖闘士候補生の名を呼んだ。
「アイザック」
「なんだ、カノン?」
 唐突に名を呼ばれ、驚きながらも、アイザックは即座に応える。
 呼びかけに続いたのは、これまた唐突な一言だった。
「お前、寸止めは出来るか?」
 困惑しながらも、アイザックは正直に首を横に振った。
「え――? …………いや、やったことはない――」
 過去の修行では、実戦さながらの組み手しか経験がない。
 平たく言えば、弟弟子とは組み手の度に“本気の殴り合い、蹴りあい”だった。
 その環境で、寸止めをする必要も、した経験もなかった。
 アイザックの否定を予測していたのか、諦め半分の溜め息を一つこぼして、カノンは言葉を続けた。
「――出来るようになれ。俺一人で全員分、基礎身体能力から鍛えなおすのは手が回らん」
「……出来ないと、駄目なのか?」
 戸惑い半分の、控えめなアイザックの反問に。
 カノンは深い溜め息をついてこう答えた。
「――鍛錬の度に、内臓破裂だの、粉砕骨折だの、重傷人を出されては修行の意味がないだろう」
 その非常識極まりない返答を聞き、一般人出身の海将軍五人が動きを止め絶句したのは――仕方のないことだろう。



『基礎、その前に』(06年6月初出)
引越し作業中の一コマ(笑)そういえば、ソレントの口調がようやくタメ口で定着してますね(失笑)
「――そういえば、内陸国の出身は、ソレントだけらしいな」
 ある日のブレイクタイム。
 何気ない会話の合間に、ふと、気付いたようにバイアンがそう呟いた。
「そうだったか?」
 その不意の呟きに、イオが首を傾げれば、バイアンは頷いて更にこう言った。
「ああ。どうやら聞く限り、皆、海沿いの国の出身らしい。生まれた土地が内陸でも、国境線は海に面している国に生まれているようだ」
 バイアンの言を聞き、アイザックはふうん、と頷き、イオは思わず頭の中で、己の部下達から聞いた出身国の位置を地図にあてはめた。
 その傍らでは、クリシュナが、成る程、と頷いている。
 そして、話題にあがった当の相手は、といえば。
「別段、特別なことはないと思うぞ。確かにわたしはオーストリア人だが、生まれたのはイタリアだからな」
 格別のことではない、といわんばかりの口調で、その呟きに応えた。
「そうなのか?」
 軽く目を瞬かせてバイアンが問い返せば、ソレントは一つ頷いて、答えを続けた。
「ああ。わたしが生まれる前後の時期は、両親はイタリアの港町で暮らしていたと聞く」
「もしかして、“ソレント”で生まれたからミドルネームにそう付けられたとか?」
 冗談のつもりでバイアンが言ってみた一言は。
 場に、何ともいえない静寂をもたらした。

 ――本当に、そうなのか?
 ――本当に、そうなのです。

 バイアンとソレントの間で、無言の会話が交わされる。
 目は口ほどにものを言うとは、まさにこのこと。
 心と心が通じ合うのは、実に歓迎すべきところだが。
 軽い冗談が冗談で決着がつかなかった、この微妙な空気はどう処理すればいいものやら。

 謝る? 悪い事を言ったわけではない。
 怒る? 気分を害したわけではない。
 流す? タイミングを逸してしまい、もはやわざとらしい。

 …………気まずい。
 当人達も、周囲も。
 ソレントは無表情と微笑の中間の、なんともいえない表情で動きを止め。
 邪気のない笑顔を浮かべたまま、バイアンのこめかみに冷たい汗が滴り。
 イオはさり気無く、二人から距離をとり。
 アイザックは視線だけを動かして、ソレントとバイアンを交互に見やり。
 クリシュナは目を閉じ、己の心を内なる精神世界に転送することで、この場の気まずさを黙殺する方針を定めた。
 軽いノリで投げられた、会話のキャッチボールは。
 未だ納まるミットを見失ったままである――。



『帰れ――へ』(06年7月初出)
名前ネタです。どう考えても、イオとクリシュナは本名じゃないし、バイアン、ソレント、カーサは洗礼名ファーストネームじゃないでしょ。
「テティス。それ、はどうやればいいんだ?」
 盛夏も近付き、蒸し暑さもいや増すある日のこと。
 海洋神殿内の通路の一角で、たまたま行き会ったバイアンに不意に問われ、テティスは首を傾げた。
「それ、とは何のことでしょう?」
 問いの意図を掴み損ね、不思議そうに訊き返すテティスに、バイアンは己の髪を指差しながらもう一度問いを重ねた。
「その髪だ。どうすればそんな風にまとめられるんだ?」
 首の後ろで簡単に束ねただけの亜麻色の髪を指し示しながらの、バイアンの問いかけに、テティスは納得したように目を瞬かせる。
 訊ねられたテティスのハニーブロンドは、一まとめに編まれて背中に垂らされていた。
「これ、ですか? 普通に三つ編みに編んでいるだけですから、特別なことはしていませんけど……?」
「やり方を教えてくれないか?」
「あ、わたしも知りたい」
 唐突なバイアンの申し出に、横合いからイオも乗っかってきた。
 二人に思いもがけないことを言われ、テティスは目を丸くする。
「…………三つ編み、なさるんですか? シーホース様、スキュラ様」
 どう反応を返せばいいのか分からず、とりあえず訊き返すと、バイアンは肩をすくめた。
「――束ねているだけでは暑くて仕方ないんだ。まさか、湿度が高いのがこうもツラいとは思わなかった」
 西岸海洋性気候に育ったバイアンには、多湿の海界の夏は堪えるらしい。
 溜め息混じりに呟くバイアンの言に、イオも頷く。
「同感だ。湿気て髪が張り付いて鬱陶しいし、気持ち悪いし……」
 そう言って、イオは大きく息を吐き出した。
 確かに、バイアンに比べれば広がらない髪質だから目立たないが、彼の薄紅色の後ろ髪も同僚と同じ様に束ねられていた。
 その時。
「――オレは、先日のアレのやり方が気になるのだが」
 思わず立ち止まって話をしていたテティスの背後から、突然、第四者の声が降ってきた。
 その声が誰のものか、など、海闘士なら聞き間違う筈がない。
 軽い驚きをにじませながら、テティスはその声の主への呼びかけを紡いだ。
「――シードラゴン様?」
 振り返れば、そこには。
 量の多い青銀の髪を乱雑に後頭部でくくった、海将軍筆頭の姿があった。
「アレだ。先日していただろう。髪をくるくると巻き髪留めで止め、首が出るようにしていた――」
 何冊かの本を小脇に抱え、カノンは無表情かつマイペースに言葉を続ける。
 地中海性気候のギリシャ出身のカノンも、海界の湿気は不快らしい。
「――あれは……シードラゴン様の髪の量だと少し難しいと思います――」
 カノンが説明する髪形を、目前の筆頭の容貌に重ねた姿を想像しかけ――テティスは何ともいえない表情をにじませながらも、几帳面に返答した。
 その後ろで、バイアンとイオは、笑いの形に歪みそうになる口元を必死に引き締めていた――。



 ――その後。
 海将軍筆頭の執務室から、口元を書類で隠して退出する海闘士が続出したとかしないとか……。



『夏のある日』(06年8月初出)
真顔でツインテールとかされたらどうしよう(笑)
 パサ……。
 静かな執務室に、紙面をめくるかすかな音だけが響く。
 執務机に肘をつき、その指の甲に額を預けた姿勢で、カーサは諜報方からの報告書に目を通していた。
 そうしていると、ふと。
 額に触れる指先に薄くにじむ汗に気付く。
 指先で軽く汗を拭うと、顔をあげ、肘を突いていた手を執務机の隅に置かれたものに伸ばした。
 手を伸ばしたのは、細く薄く切断された木片を、止め具をもって一ヶ所でまとめたもの。
 それを手に取り、片手で器用に広げて、軽く己をあおぐ。

 透かし彫りの施された白木の扇は、多湿の海界の夏に調子が上がらぬカーサを見かねた部下が求めてきてくれたものだった。
 納涼に使うものだと教えられ、渡された扇は、甦ってすぐに迎えた今夏の間、カーサの傍らに置かれ続けていた。
 使わねば耐え切れない蒸し暑さだったことも事実だ。しかし、実用品としての使い勝手もさることながら、物自体が気に入った、という面もある。
 異国情緒のにじむ細やかな紋様が刻まれたしつらえも、扇ぐ度にふわりと香気が漂うところも、それから、華美な装飾がなく素材そのものの良さを全面に出した造形も、カーサは気に入っていた。

 二度、三度、と扇いで――カーサは、ぱたん、と扇を閉じる。
「――ようやく、暑さもマシになってきたようだな」
 盛夏の頃には、まとわりつくような湿気の所為で陽射しを感じなくとも暑くてしかたなかったものだ。それも、晩夏に至り、ようやく蒸し暑さも和らぎ始めたようだ。
「来年の夏まで、お前をどこに置いておくかねぇ?」
 執務机の片隅に、書類に埋もれないように据えられた氷細工の雪だるまに目をやり、カーサは微苦笑をにじませながら呟いた。
 それから、アロマキャンドルなどが収納されているサイドボードに視線を向けて。
 目を細めてそれらを眺めた後、何事もなかったように、再び書類に目線を落とした。



『残暑』(06年9月初出)
久しぶりに短い(笑)05年のカーサ誕とあわせて読むとより楽しめます。
 巨蟹宮の主に用事があり。
 六つ下まで出向いた帰り道。
 十二の宮をつなぐ階段で、教皇宮から下りてきた人馬宮の守護者と鉢合わせたのは、まったくの偶然だった。

 その、数分後の今。
 アイオロスの、天衣無縫の笑顔に押し切られ、シュラは獅子宮の私宮に招き入れられていた。
 本来の主であるアイオリアは訓練に下りているとかで不在であったのだが。家族ゆえの遠慮のなさで、アイオロスは私宮のキッチンを勝手知ったる何とやら、とばかりに、招き入れた客人に茶を振舞ってくれた。
 次期教皇手ずから入れてくれた茶は、アイオリアが魔鈴から貰ったというグリーンティー。
 注がれた器がマグカップなのは、ご愛嬌、としておこう。
 かつて拳を向けた過去があるだけに、二人きりの状況に座りの悪さを感じないでもなかったが、出された以上は口をつけぬは逆に無礼。とりあえず、頂きます、と一言述べてシュラはカップを手に取った。
 そして、一口、口に含んで。
 危うく吹き出しかけた。

 ――マグカップに注がれた緑茶は。ありえないことに……。

 甘かった。
 しかも、激甘だった。
 叶うことならば、このまま吐き出したい。
 しかし、礼儀として、それは出来ない。否、するべきではない。
 嫌な汗をにじませながら、シュラは決死の思いで――口内の砂糖入り緑茶ならぬ緑茶風味砂糖水を嚥下した。
 かなり強引に食道に押し込んだ甘い液体の代わりに、胃の腑からこみ上げてくるものを意志の力で下へと押し返す。
 甘い。
 舌ばかりか、口の中全体――いや、喉までも味覚感知器官になった錯覚さえ覚えるほど、甘味を訴えてくる己の消化器官を全霊を込めて宥めることしばし。

「……アイオロス」

 マグカップを握り締め、俯いたまま、シュラはようやくその一言を搾り出した。
 歯茎が疼く所為か、はたまた、砂糖の感触が喉に張り付いている所為か、声を紡ぎ出すのにひどく労力が必要だった。
「……緑茶に、砂糖は、一般的には、加えません……」
 抹茶ならば。
 抹茶ならば、砂糖やミルクと混ぜる飲み方もある。
 だが、しかし。
 緑茶に、普通、甘味は加えない。と、いうか、加えるものではない。
「だが、シュラ」
 控えめに告げたシュラの主張に。
 アイオロスは首を傾げて、こう応えた。
「紅茶には砂糖を入れるじゃないか?」
 ――確かに。
 確かに、紅茶も緑茶も、同じ茶の木の葉から加工されるものだ。
 だが。
 緑茶は不醗酵茶であり、紅茶は全醗酵茶。加工法が違えば、飲み方も自ずと異なる筈だ。
 つっこみたかった。
 心の底から、つっこみたかった。
 しかし……。
 シュラには適切なつっこみの言葉は――浮かばなかった。

 人馬宮の主が、“一般的な緑茶の入れ方と飲み方”を知ったのは、それから数日後のことだったとか、なんとか――。



『ティータイム』(06年10月初出)
当サイトのシュラは甘味が大の苦手という設定。逆にロス兄は甘党設定。
「やはり、料理が出来るようになったほうがいいだろうか」
 ある日曜日。いつもの通りに開かれた海将軍達の会議兼報告会、その小休止を兼ねたティータイムの席で。
 テティスお手製のアップルパイを一口味わった後――いつかのパンプキンパイの一件の後、カーサがさり気無くテティスに話をしてくれたようで、あれ以来、お茶菓子はギリシア人仕様とそれ以外で別製作をしてくれている――、ぽつり、と唐突にバイアンがそう呟いた。
「いきなり、何を言い出すのだ? バイアン」
 意図がつかめず、目を瞬かせながら問い返すソレントに、バイアンはその呟きを発した理由を語った。
「いや……、海界ここにいる皆は、料理が出来る人が多いだろう?」
 確かに、海将軍のほとんどは自炊が出来る。
 テティスはお菓子作りが得意であるし、南氷洋のカーサの副官は「趣味・料理」というだけあって玄人並みの腕前だし、他にも、調理師免許を持っていたり、栄養士の資格を持っていたりする海闘士もいる。
 そういった意味では、海界の食卓事情はかなり恵まれていた。
「出来る人を見ていると、自分も出来るようになった方がいいのではないか、という気がするんだ」
「そんなに気負うことはないぞ、バイアン」
 生真面目に語るバイアンに、今度はイオが口を開いた。
「場数を踏めばその内に馴れるものだ」
「そう、だな」
 イオの言に、アイザックも頷く。
「出来ぬ、というが、まったく出来ぬわけでもなかろう?」
 その傍らから、クリシュナが問えば、バイアンは軽く顎に手を当てて、こう答えた。
「そうだな……。包丁を握ったことくらいはあるが……」
「充分だろ。スープと焼き物が作れりゃ、料理が出来る部類に入るさ」
 ひらひらと手を振って、軽く笑いカーサが言うと、それまで口を開かなかったカノンも、ひとつ頷いてこう告げた。
「料理なんぞ、学ぶものでもあるまい。手伝いをしているうちに自然に覚えるものだ」
 さらり、とそう言って、コーヒーカップを手に取った。

「…………手伝い?」
 だが。
 あっさりと言われた発言内容に、他の海将軍達はわずかに戸惑ったように、筆頭へと視線を向けた。
 台所仕事の手伝いをするカノン。
 ――想像がつかない。
 ――そもそも、流しに向かうこの人が想像出来ない。
 ――鍋を持ってる姿もだ。
 ――無表情で包丁を握っている姿なら、思い浮かべられるぞ。
 ――やっぱり、甘めの料理を作るのかな?
 ――いや、それは、菓子とかだけだ。ギリシア料理は甘くねえ。
 無言のアイコンタクトで交わされる、沈黙の会話に。
 日常離れした容貌を持つ海将軍筆頭は、無反応にコーヒーを口に運ぶのだった。



『ティータイム2』(06年11月初出)
海界日常シリーズ、第何弾か。バイアンの向上心は微妙にずれてる気がしてきた(失笑)

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