はふ……。
 手にしていた書籍で欠伸を受け止め。
 デスマスクは、ソファの肘掛に投げ出していた足を組みなおす。
「あー……。ヒマだ――」
 ぽつり、と呟いて。
 傍らのテーブルの上に、その手に持っていた本を半ば投げ出すように置く。
 甦り。
 海界とは同盟関係に落ち着き。
 表面上は平穏な日々。
 カミュは行方不明だった弟子との再会を果たし、サガも実弟との関係修復は順調に見える。
 実に、平和な情勢なのだが……。
「ヒマだ……」
 十三年間、離れることの出来なかった聖域運営と、教皇宮の実務は、既にデスマスクやアフロディーテ達の手から離れ、後輩達に引継がれている。
 十二宮から外に出ることなど、週に一、二度の買出しの時程度。
 幸い、現代っ子のアテナのおかげ(?)で、聖域も、現代化がわずかずつとはいえ始まっており、ネット環境を整えることも出来た。
 巨蟹宮常在でも、世情から隔絶はされずにすむのだが……。
「ヒマだ――」
 なまじ、今まで脳味噌を休めるゆとりもないほどの日常を送っていた所為か、取り立ててやることのない日常は時間をもてあますばかりだった。
 その点、昼食時の双児宮での料理教室は――頭が痛い時もあるが――、無為の時間を消化するには丁度いい。
 だからといって、四六時中そればかり、というわけにはいかない。
 リュムナデスとの、メールでの世界情勢議論も、充分楽しめるのだが。
 向こうにも公務があり、かつ、学生である以上、ネチケット、というものも守らねばなるまい。
「あー。くそ。日本語でいうところの“濡れ落ち葉”か、これ?」
 だらり、と両手を投げ出し、ぼやく。
「ひまだぁ……」
 激務に慣れた体と頭は、中々、平穏な日々に順応出来ないようだった。



『閑居』(05年6月初出)
一応、蟹誕。デスマスクはヒマをもてあますタイプでしょう。
 海皇と海闘士達が新たな海洋神殿で海界再編に奔走した忙殺の日々も、一応は一段落ついてはいたが。
 北大西洋の守護者の執務室では、以前と変わらず書類との消耗戦が続いていた。
 カリカリと、ペンを滑らせながら手際よく書類を片付けていると。
 コンコン……。
 控えめなノックの音が、耳に届いた。
「構わん。入れ」
 手を休めずカノンがそう応じると、そおっと、大きな扉が開かれ――その隙間から、最年少の海将軍が躊躇いがちに姿を現した。
「カノン……。少し、いいだろうか……?」
 一瞬の逡巡の後、アイザックは執務の邪魔ではないだろうかと言いたげな表情で、申し訳なさそうに言葉を発する。
 海将軍筆頭が部下の誰よりも勤勉で多忙なことは、海界の者ならば全員が承知していることだ。
 かけられた声音に、来訪者が北大西洋付きの海闘士ではないと気付き、カノンはペンを止め顔を上げる。
 そして、軽く首をかしげて、扉の前で立ち尽くしている北氷洋の守護者に来訪の意を問うた。
「――どうした、アイザック」
 カノンの穏やかな口調に促されたように、アイザックは控えめな声音でその問いに応じた。
「……昼食の支度が整ったそうなんだが……来ないか?」
 その言葉を聞き、カノンは視線を机の端に置かれた卓上時計に向ける。
 視界に納めた時計は、正午を幾許か過ぎた時間を指し示していた。
 時計と、アイザックと。
 双方にもう一度ずつ視線を向け――カノンは、納得の意を込めて軽く目を細めた。
 どうやら、この最年少の海闘士は、仕事にかまけてしばしば食事を摂ることも忘れるカノンを食卓に引っ張り出す為に差し向けられたらしい。
 その予測に、カノンの口元から、思わず、小さな苦笑がこぼれた。
 配下の者が相手ならば、「後でいい」というところだが――。
「――そうだな。少し待て。この書類を片付けたら行こう」
 微笑と共に吐き出した返答に、アイザックの顔にほっとしたような……笑みが広がる。
 その微笑みに、カノンは苦笑を噛み殺すしかなかった。
 ――結局のところ。
 海闘士は皆、この最年少の海将軍に甘いのだ。



『海界昼食事情』(05年6月初出)
海界の日常シリーズ、第何弾か(笑) 海将軍筆頭は仕事の虫なので部下の悩みの種。
「……『鱗衣の必須着用は公的儀礼及び警邏勤務時のみとし、それ以外での私服着用を許可とする』。なんだ、これは?」
「――ポセイドン様とカノンの認可印まで押してあるぞ?」
 バイアンとイオは目を丸くして、その掲示紙面に見入っていた。
 二人とも、週末の海将軍会議の為に地上から海洋神殿へと戻ってきたところなのだが、帰還早々、目に付いたのがソレだった。
「――イオ、バイアン。今戻ってきたのか?」
 不意にかけられた声に、二人が視線を転じれば。
 掲示板の前で立ち尽くす二人を見咎めたソレントがそこにいた。
「……ソレント。ただいま」
「ああ、たった今、戻ってきたところだ。――ところで、コレはなんなのだ?」
 イオに問われ、ソレントも困ったように眉根を寄せて言葉を濁す。
「何だと言われても……。見ての通り、としか言えないのだが……」
「蒸し暑いからだろ?」
 その語尾に重なるように発せられた声に、彼らはソレントが来たのと逆方向に視線を向けた。
「カーサ?」
 逆方向からやってきたのは、書類を小脇に抱えたカーサだった。
「――その暑いから、というのは一体どういう意味なんだ?」
「オレは海界の夏は二度目だがな、すごいぜ、湿度が。その所為で蒸し暑いのなんのって……」
 ふう、と溜め息混じりに肩をすくめて首を横に振る。
 その言葉に、納得いかなげな表情でソレントが異論を述べた。
「だが、鱗衣を着ていれば、外界の温度には影響されない筈だが?」
「……視覚の暴力だぜ、防具フル装備の連中がうじゃうじゃしてる光景ってのは」
 その情景を想像し……三人は一様に微妙な表情を浮かべた。
 確かに、夏場の暑い盛りに周囲に重装備の人間ばかりいる状況は――心理的に辛いかもしれない。
「もともと、鱗衣着っぱなしだったのは、新顔の連中にせめて上位の面子だけでも分かりやすいようにって意味だしな」
 ――名札代わりだったのか……。
 海皇降臨の数ヶ月前に海界に来た三人は、初めて知った裏事情にますます微妙な表情をにじませる。
「そろそろ仲間の顔と名前も覚えただろうから、もういいだろうって話になったわけだ。それにな、事務方にもそうとう不評なんだよ」
 事務方、とひとくくりにされるのは、それぞれの海将軍の補佐を務める面々――つまり、彼らの部下達だ。
 己の部下が、一体何に不満を抱いていたのかと、小首を傾げながら三人はカーサの次の言葉を待つ。
 はたして告げられたのは。
「ナックルガードも、アームパーツも、ショルダーも、事務仕事中には邪魔なんだよなあ……」
 溜め息交じりに呟き出されたカーサの言葉に。
「……成る程」
「――ああ、納得出来た」
「確かに……」
 三人は思わず深く頷いたのだった。



『着衣の自由』(05年7月初出)
盆地育ちなら分かるでしょう、蒸し暑さの辛さ(苦笑)日陰にいても意味がないんです。
 ぼんやりと目を開けて。
 やけに身体の節々が痛いことに気付いた。
「――う……」
 自分でも意識せぬうちに、身じろいで声を出していたらしい。
「……っ! すまない、カーサ。起こしてしまったか?」
「起こすつまりはなかったんだが……」
 頭の上で、やけに慌てたような声がした。
 寝起きのぼーとした頭には状況を把握しきれず、ほとんど反射で、のろのろと顔を上げる。
 顔を上げ、はふ、と欠伸をしながら、机の周りを見わたしたら――、そこにはカノン以外の五人が揃っていた。
「…………どうした、お前ら……?」
 半分寝たままの頭を軽く振って、呟くように訊ねてみた。
 ついでに短く刈り込んだ髪を、がしがしと掻き乱す。
 ぼんやりと机の端に視線を向けると、最後に見た時から二時間が経過していることが分かった。
 三十分ほど仮眠を取るつもりで、うっかりと寝入ってしまったようだ。
 つらつらと考えているうちに、大分頭も目覚めてきたようだ。
 そうだ。夏季休暇を利用して、海闘士の大部分は海界に詰めているのだった。
 この長期休暇中に、聖域との同盟締結だの、海界のシステムの整理だの、時間が掛かって面倒なことは形にしてしまおう、というのが、その理由だった。
 そう、夕べは調べ物が片付かず、結局貫徹をしてしまい――昼前に、少し仮眠を取ろうとして……そのまま執務机に突っ伏して爆睡してしまったらしい。
 はっきりしてきた思考回路と認識能力で、もう一度、自分の周囲を見渡し――執務机の上に奇妙なものを見つけた。

 雪だるま型の氷細工の小さな卓上オブジェ。

 折角目覚めた脳みそが、一瞬、止まった。
「――あ、カーサ。大丈夫だ、それは溶けないから!」
「――だろうなあ……。――ちょうどいい感じに周りが冷えてるぜ」
 製作者の慌てたような弁明に、とりあえず頷いて応えた。
 先程から感じていた、ひんやりと冷たい空気の発生源はどうやらコレだったらしい。
「海界の暑さに随分参っているようだったから、冷房代わりに置くといいそうだ」
「空調の冷気は苦手だと言っていたが、これなら大丈夫だろう?」
「今日はカーサの誕生日なのだろう? この間、クリシュナの誕生日の時にそう言っていたじゃないか」
「……あー。言ったっけ……?」
「だが、何を贈れば喜んでもらえるか、見当もつかなかったのでな」
「別に、気を遣うこたぁねえって」
「とりあえず、これは持っていないだろう、と思うものにしてみたのだが……」
 そう言われて、もう一度、机の上を一瞥してみれば、その氷細工と共に、他にも色々なものが置かれていた。
 ヒーリングミュージックのCDだの、アロマテラピーのオイルだの……。
 ことごとく、癒し、あるいは健康グッズである。
「――――まあ、確かにどれも持ってはいねえな。ありがとよ。お前らの気持ちはすげえ嬉しいよ」
 祝う気持ちと、気遣う気持ちは嬉しいのだが……。
 ――徹夜はもう止めよう。
 内心、そう誓うカーサだった……。



『カーサ誕』(05年8月初出)
……と言いながら、06年1月の拍手SSでまた徹夜してます(笑)
 それは、とある日曜日のこと。
 朝というには遅く、正午というには早い、そんな時間のことだった。
「……何をしているんです、二人とも」
 困惑にも似た表情で、眉間を寄せ、ソレントはそれだけを口にした。
 書庫に入らせてもらう断りをいれようと、カーサを探し――彼の部下達の情報を元に――足を向けた厨房で。
 中腰で座り込む――日本風に言えばヤンキー座りというやつだ――カーサと。
 地下貯蔵庫の扉に背を預け、もたれ立つカノンと。
「――コーヒーカップでなく酒瓶を手にしていれば、キッチンドリンカーにしか見えませんね」
 なんとも言いがたい口調でソレントがそう呟くと、カノンが軽く眉根を顰めて「勝手に人をアルコール中毒にするな」と言い返す。
 その反論を聞き流し、ソレントは更に言葉を続けた。
「わざわざ厨房で飲まなくても、執務室でコーヒーブレイクをとっても誰も文句は言わないでしょうに」
「まあ、言わねえけどなぁ……。言わねえが、どうにも気が進まねえぜ、今の時期は」
 ふう、と嘆息をもらしたカーサの一言に、ソレントは軽く首を傾げる。
「どういう意味です?」
「今月は断食月ラマダーンだ」
 その問いに、横合いからカノンの返答が入った。
「ラマダーン?」
 聞き慣れない単語に、ソレントが疑問符を浮かべる。
 その表情に、察するものがあったのか、カノンが納得したように頷いた。
「ああ、南大西洋おまえのところの事務方にはイスラム教徒ムスリムはいなかったか」
「イスラム教の風習っていうか、習慣っていうか……。簡単に言うと、だ。一年に一ヶ月間、日中は飲み食いしない月があるんだよ。飯は勿論、水も飲まねえ。煙草も駄目じゃなかったっけかな? それが断食月さ」
 簡潔に断食月についての説明を述べると、カーサは軽く肩をすくめた。
北大西洋カノンのトコにはムハンマドがいるだろ? 南氷洋オレのトコにもいるからな。飲まず食わずでいる奴の目の前で飲み食いするのは流石にな」
 茶化すような口調でそう締めくくり、手に持つインスタントコーヒーを一口含む。
 説明を聞かされたソレントの方は、といえば、その厳しい習慣に驚きと呆れの入り混じった呟きをこぼす。
「どういう教義なのだ、それは」
 何を好きこのんで、そこまでの苦行を為すのか、と言いたげなソレントの呟きに、カノンが淡々と応じた。
「宗教的な事柄に論理的な説明を求めても無意味だぞ。俺に言わせれば、キリスト教徒のミサも意図が理解出来ん」
 無表情にそう言いきったカノンに、カーサが片目を瞑り、にやりと笑う。
「信仰心に理屈は聞くだけ野暮だぜ、カノン」
 おどけた口調でそう言うカーサに、カノンは小さく苦笑し。
 ソレントは困ったような表情で目を瞬いたのだった。



『異文化の坩堝』(05年10月初出)
このSSをアップする為に05年の断食月が何時か調べました。イスラム暦は太陰暦なので毎年ずれるのです。
 ザア……、と。
 めいっぱいに捻った蛇口から、水流がシンクにたたきつけられる音が、やけに大きく響く。
「……」
 それは、キッチンに微妙な沈黙が沈殿している所為もあるだろうが……。
「……サガ」
 はあ、と、溜め息混じりにデスマスクが名を呼べば。
「…………すまない」
 既に口癖と呼んでも差し支えのない謝辞が、やけに小さく呟き返された。
 いつぞやの一件から、有言実行とばかりに始められたワンツーマンレッスンだったが、デスマスクの予想に反して、サガの料理の腕前は悪くはなかった。
 例の流血の惨劇があっただけに、絶望的なまでに壊滅的かと思いきや、包丁使いも丁寧で、人並みの腕前はあったのだ。
 だから、基礎を教えるのではなく、レパートリーを増やす方向に切り替えたわけだが。
 ――それだけに、油断をしていた。
 いや、誰も予想はするまい。
 火にかけられ、ぐつぐつと熱湯が煮立つ胴鍋を、素手で掴む輩がいようとは。
 蛇口から流れる水が、火傷で赤くなったサガの掌と、その手首を掴んで水流の中に突っ込んだデスマスクの手を、たたきつけるように濡らす。
「……あのなぁ。刃物持ってる時だの、火を使ってる時は、頼むから集中してくれ」
 再度、嘆息まじりにそう言えば。
 所在なさげに肩をすくめてうなだれ、蚊の鳴くような声音で、謝罪の言葉がこぼれる。
 思考の迷路――しかも、往々にして出口のない迷路に――はまりやすい性格は重々理解しているつもりだったが……。
 みたび、溜め息をついて、デスマスクは握った手首を放した。
「水から出すなよ」
 きっちり釘を刺し、ボールをひとつ引っ掴んで、冷蔵庫の冷凍室を開けると、製氷機の氷をボール半分まで入れる。
 氷で満たしたボールを片手にシンクに戻り、水が流れっぱなしになっている流しにそれを置いた。
 そして、再びサガの手首を掴んで氷水と化したボールの中に、その手を突っ込んだ。
 そして、しばしの沈黙の後。
「……上等だ」
「…………デスマスク……?」
 ぽつり、と低く呟いたデスマスクの様相に、不安げにサガは相手の名を呟き呼ぶ。
「そんっなに気が逸れるっていうんだったら、余計なことを考える暇もねえような、手間のかかるやつを教えてやろうじゃねえか、こんちくしょう!」
 その日。
 自棄っぱちな響きを宿した一喝が、巨蟹宮のキッチンに響き渡ったのだった――。



『巨蟹宮料理教室2』(05年11月初出)
当サイトのサガは、若干、本人無意識の自傷癖を疑っています(汗)
「……妙な、感じだな」
 書庫で、書籍を漁っていた手をふと止め、アイザックは独り言めいた呟きをもらした。
 ――のだが。
「何がだ」
 思いもがけない反問に、思わず音をたてんばかりに振り返る。
 そして、反射的に声のした位置を探れば、二つ先の書棚の向こうに気配があった。
「……いたのか、カノン……」
「気付いていなかったのか」
 す、と。
 足音も低く書棚の影から現れたカノンは、特に何の感慨も感じさせぬ平静な声音でそう言った。
「……気配も、小宇宙も感じなかったから……」
 言い訳めいているな、と思いながらも、アイザックが小さく呟き返せば、カノンは同じ口調で軽く頷き応えた。
「そうか。癖だ。気にするな」
 何でもないことのようにあっさりと言い放つその言葉に、倍の年齢差とそれに比例する経験値の違いを実感する。
 こんな小さなことにも、己の未熟を思わずにはいられず、アイザックはわずかに苦味が交じるものを腹の内へと飲み込んだ。
「ところで」
 そんなアイザックの内心には気付かぬていで、カノンはゆっくりと言葉を続けた。
「何かおかしなことでもあったのか?」
 静かな問いかけは――何か問題でも発生したのか、という詰問にも似たものを孕んでいて。
「違う、そうじゃない」
 思わず目を見開いて首を横に振り、アイザックはカノンの杞憂を否定した。
「ただ――変な感じだな、と思っただけだ。昨日から、クリスマスのミサに行く為に何人も地上に行っているだろう?」
 グレゴリー暦で数えれば、この日はイエス・キリストの生誕日。
 キリスト教徒達は、その前夜に行われるミサで祈りを捧げ、救世主の生誕日を静かに待つのだという。
 海闘士のざっと四半数は、地上での時差に合わせて時間をずらし各々地上へと出、教会に祈りを捧げに行っていた。
 その中には、海将軍の四人も含まれている。
 バイアンも、イオも、ソレントも――神など信じていないような顔をしているカーサですら、十字をきり祈りを捧げることを習慣としていた。
「オレ達は神に仕える海闘士なのに、キリスト教の祈りに参加するのは、妙な気がするな、と思っただけだ」

 聖闘士となる為に師の元にいた七年以上の間、信じるべきとされた神は、ただ一柱だった。
 海将軍として生きることを選んだ今、忠誠を誓い、信じる神もまた、ポセイドン唯一柱であるべきだった。
 ――少なくとも、アイザックの知る価値観はそうだった。

 だからこそ、感じた違和感だった。
「そうか? 俺はさほど不自然なことだとは思わなかったがな」
 だが、アイザックが率直に口にしたその言葉に、返ってきたのは、軽い不思議の色を宿したカノンの声音だった。
「海闘士だからといって、海皇を信仰せねばならんわけでもあるまい? 海界の一員としての義務を果たしさえすれば、信仰も忠誠も誓わんでも構わん」
 カノンの思いもがけない主張に、アイザックは大きく目を見開く。
「心中でどんな神を信仰していようと、そんなものは関係ない。海闘士でありたくないというのなら去ればいい。ただし、ここに残ると決めたのなら、海闘士としての義務は果たしてもらう。それさえ為していれば、奴らの胸のうちなど、詮索する気もない」
「……だが、カノン。信じてもいない神の為に闘えるだろうか?」
「皆が皆、海皇の為に闘うとも限らんだろう。もっとも、今海界にいる連中の闘う理由を俺が代わりに考えてやるつもりはないがな」
 信じてもいないものの為に、命を賭けられるのか。
 当然といえば当然の疑問を、カノンは素っ気なく撥ね退けた。
「奴らが何を信じるのか、何を目的にしているのか、そんなものは奴らが考え、決めればいいことだ」
 海将軍として、その筆頭として、部下達に対して負う義務はある。
 だが、思考まで代替してやる義務まではない。

 何を信じるか。
 何の為に闘うか。
 何を思って生きるか。
 それは、己で決めろ、と。
 信じる神も、命を賭ける理由も、生きる為の目的も、他人に委ねるな。他人に決めさせるな。
 己が考え、己で選び取り、己で――己の意思で決定を下せ。

 静かな口調での厳しい断言は、しかし、正論だった。
 己の足で立つことを要求する厳しさの内には、同時に、他者への尊重も潜んでいた。
 ――ああ、だから。
「少なくとも、心の内で何を考えるかは、強要されるものでも、するものでもなかろう。奴隷にも心中で主人を罵倒する権利はあるのだからな」
 薄く微笑み、冗談のように最後にそう付け加えてカノンは言葉を締めくくると、軽くアイザックの肩に手を置き書庫から出て行った。
 その後ろ姿を見送りながら。
 だから、この背に海闘士達は従うのだと。
 だからこそ、この人を皆信じるのだと、得心が胸の内を滑り落ちる。
 そして。
 やはり、まだまだ自分は未熟だと。
 アイザックは天井を仰いで、嘆息をこぼすのだった。



『海界宗教事情』(05年12月初出)
身についた風俗的・文化的習慣はそう簡単には変わらないし、信仰は強要出来るものじゃないと思うんですよ。

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