生き返ってからこっち、海界再編の為に奔走した忙しい日々は、まあ、ようやく落ち着きつつあった。 そんなある日の、ジュリアン様も交えた会議の後のことだ。 テティスが手製の焼き菓子をコーヒーブレイク用にと差し入れに来た。この嬢ちゃんは、けっこう気がきく。仕事も真面目にこなす上、料理も上手いってのは、いいスキルだと思うぜ。 焼きたてのパンプキンパイは、見るからに旨そうだしな。 実際、それを口に運んだジュリアン様は、にっこりと笑って嬢ちゃんの腕前を褒めたし、カノンもたまにしか見せねえやわらかい微笑で「ああ、美味い」ときたもんだ。 二人の表情に、他の坊や達もなんとなく微笑を浮かべてパイにフォークを入れた。 臣下の礼儀として、主――ジュリアン様はポセイドン様の現し身だからな。まあ、人格は別々に共存してるが――と筆頭殿が口をつけるのを待つのは、まあ、当然だ。 オレは辛党なんだが、嬢ちゃんの力作だ。食わねえのは悪いからな。そう思ってフォークを手に取ったら、だ。 『甘いっ!!』 日常、感度を下げているオレの能力のアンテナに、絶叫にも似た感情が飛び込んでき、オレは思わずフォークを持った手を止め、回りの坊や達の顔を見渡した。 目をやりゃ、どいつも、明かに珍妙な表情で硬直してやがった。 ――おい、そこの何にでもメープルシロップ入れるカナダ人。 あと、コーヒーに生クリーム入れるオーストリア人。 お前ら二人が硬直する甘さって何だよ。 クリシュナ、真面目な顔でフリーズするな。 イオ。目が泳いでるぞ……。 アイザックなんか悶絶してるじゃねえか。……おい、生きてるか? ――どういうこった? この嬢ちゃんなら、砂糖の入れ過ぎってこたあねえだろ。現にジュリアン様とカノンは、マジで旨そう……ん? ……おい、嬢ちゃん。 まさか、これ、ギリシャ人仕様か? そりゃ、キツイぜ……。 ……目の前の可愛らしいパンプキンパイが、フェニックス以上の強敵に見えてきたぞ……。 『ギリシャ人の味覚』(04年10月初出) |
思いもがけない復活劇、そして海界からの同盟の申し出と。 問題は山積みだったが、取り敢えず、色々な問題はうやむやのまま、何とか体裁だけは整えられ――ともあれ、表面上は平穏な日々とやらはおとずれていた。 そんなある日。 「何をしているのだ、デスマスク?」 「……なんだ、この甘ったるい匂いは……」 冥闘士との闘いで一部崩壊した十二宮は、建て直しのついでに全宮リフォームされ、現在、各宮に居住スペースが確保されている。 巨蟹宮を訪ねたアフロディーテとシュラが、キッチンから漂う甘い香りに首を傾げると、オーブンから焼きあがったマフィンを取り出していたデスマスクはごく平静な表情でこう応じたのだった。 「よお。ちょうど良かった。ちょっと味見てくれねえか?」 「……甘いものは嫌いじゃなかったのか?」 甘い香りに辟易したように鼻と口元を掌で覆い、眉根を寄せるシュラの問いかけに、デスマスクは型から一つずつマフィンを取り出しながら、あっさりと頷いた。 「嫌いだぜ? だから、代わりに味見しろって言ってるんじゃねえか」 そのやりとりが交わされる横で、アフロディーテはその内の一つを手に取り、ぱくり、と一口頬ばる。そして、一言、簡素に感想を述べた。 「うむ、美味いぞ」 「……『美味い』か『不味い』しか言わないアフロディーテに味見をしてもらう意味はあるのか?」 疑わしげなシュラの問いを、デスマスクはしれっと受け流す。 「不味いかどうかは分かるだろ?」 「しかし、何の気の迷いだ? 菓子作りとは……」 二口目を飲み込んでアフロディーテが投げかけた疑問に、デスマスクは作業をしながら答えた。 「話せば長くなるがな……」 「では、手短に話したまえ」 「ミロが食いたいって駄々こねたから」 絶妙の間である。 その時の話の流れで他の宮にも配ることになったのだという製作者の言に、大量のマフィンの存在理由を納得する二人だった。 『聖域のパティシエ』(04年10月初出) |
「元気そうじゃの、紫龍よ」 「お久しぶりです、老師」 盧山五老峰。 その大滝の前に常に座していた小柄な老人の姿が絶え、はや半年。 冥王との聖戦の後、様々な誰も予想しなかった状況の変化を経て、老師――童虎は主に居する場を聖域に移すこととなった。 大人の事情、というやつじゃな。 弟子と四歳しか変わらぬ外見になってしまった師は、その理由を訪ねられた時、笑ってそう誤魔化した。 おそらくは、いまだ内外双方に問題を抱える聖域を治める為には、黄金聖闘士がアテナの元に揃っている状況を必要としてるのだろうが――まだ、十代の半ばに過ぎぬ紫龍には、その裏事情までは推測しきれない。 聖戦の折、己に誓ったとおり、紫龍は五老峰に程近い山村で春麗とともに暮らす日々を始めていた。 戦いの日々は再び訪れるかも知れなかったが、せめてそれまでの時間を少しでも愛しい少女と過ごすことを望んだのだった。 アテナや師も、その事を容認してくれた。 それに、聖域に移ったとはいえ、テレポーテイションを使える童虎は、月に一度は己の養い子達の様子を見に戻ってきている。 当初こそ、事情を説明されたとはいえ別人のように若返った養い親に当惑していた春麗も、近頃は慣れてきたようだった。 「目の具合はどうじゃ?」 「はい――。何の問題もありません」 かつて積死気から生還した折に光を取り戻していたように、冥府から戻ってきた時、紫龍の目は回復していた。 もっとも、二度にわたる失明の影響か、以前よりは視力は落ちてしまったが。 「まいりましょう、老師。春麗が首を長くして待っていますよ」 「うむ」 人目につかぬよう、大滝の前に転移してくる童虎を、紫龍が出迎える。 それが、聖戦の後から始まった、一月に一度の決まりごとだった。 『帰省』(04年10月初出) |
「さて。一通り仕事の引継ぎは出来たところで、最重要事項をお前らに教える」 まだ、アテナの聖闘士達が、謎の復活劇と聖域再編と二重の混乱の只中にあった時期のこと。 覚醒した黄金聖闘士は順次、教皇宮に連れ込まれ、事務処理要員に仕立て上げられていた。 そうして、取りあえずは、年少六人中早生まれ組の三人とシオンだけでも執務に支障をきたさない状態にはなっていた。 年上の三人が、その話題を提示したのは、そんなある日のことだった。 「お前達に、執務の他にもうひとつ身につけて欲しいことがある」 「これは最も重要な要素だ。なにせ、聖域の運営の基盤に関わることなのだからな」 先輩三人の、やけに真剣な表情に、年少のメンバーも――程度の差こそあれ――真摯に次の言葉を待った。 「お前ら、株の見方、覚えろ」 「――――え?」 「……どういう、意味ですか?」 「――――か……株?」 「……あ……あの、すいません、言わんとするところがつかめないのですが……」 唐突なデスマスクの一言に、ミロはぽかんとし、カミュは呆気に取られ、ムウは怪訝な表情で訊き返し、アイオリアは唖然として呻き、アルデバランは呆然としながら問い返した。 そんな後輩達の反応に、アフロディーテは片眉を軽く上げた。 「何を驚いている。聖域も組織である以上、運営資金は必要なのだぞ。古今東西、軍隊というものは消費するだけで生産性はない。であれば、別の方面で運営資金を捻出する必要があることは自明の理だろう」 抑揚薄く説明するアフロディーテに、シュラも然り、と頷いた。 「――いや……あの、株式投資というものは説明されて簡単に出来るものではないと思うのだが……」 三人の主張に、困惑もあらわにカミュが異を唱える。 それに対して返ってきたのは――デスマスクの爆弾発言だった。 「お前ら。何の為にセブンセンシズに目覚めてるんだ」 「!! 小宇宙で解るものではないでしょう!?」 「「「大丈夫だ。解る」」」 思わず言い返したムウのツッコミは、三人の異口同音の反論で一蹴されたのだった――。 『聖域財政事情』(04年11月初出) |
海界再編の日々を重ねていた、ある日のこと。 その蔵書量で、海将軍共有の資料室と化しているカーサの執務室に、たまたま七人の海将軍全員が揃っていた時のことだった。 「そういえば、海界の財源はどうなっているのだ?」 資料を探していたイオの目が、たまたまそこにあった経済関係の書籍にとまったことから、その話題は始まった。 「……言われてみれば……。ジュリアン様はポセイドン様の現し身だが、だからといって、ソロ家と海界がつながっているわけではないし……」 「そうだな。ソロ家のほうの役員は、海界とは無関係なのだから」 「――言っていなかったか? 株だ」 環境白書をめくりながら、さらり、と告げたカノンの言葉に、イオもバイアンもソレントも一瞬固まる。 「「「……え?」」」 「株式だ。特にカーサが来てから、利潤が上がっているぞ。上がるか下がるか、程度なら銘柄が放つ氣で存外分かるものだが、やはり、論理立てて先読みをするほうが実入りがよくなる」 「そうかあ? カノンも結構いい読みしてるぜ?」 なんでもないことのように、淡々とページをめくりながら語るカノンの言葉と、その後に続いたカーサの軽い一言に、バイアン達は絶句するしかなかった。 「――そういうものも、小宇宙で分かるものなのか?」 困惑の表情で小さく問いかけたアイザックに、カノンはあっさりと頷いた。 「数字の羅列とはいえ、人間の活動力が集まったものだからな。生きていると言えなくもない」 「ふむ。無機物であろうと、活動している以上は生きているということか」 ――それは、何か違う!! 納得したように頷き、呟いたクリシュナの一言に、現役学生三人は心の中で首を横に振るのだった。 『海界財政事情』(04年11月初出) |
夕暮れ時の十二宮。 人馬宮から下へと向かう階段を下るアイオロスの姿があった。 少し疲れた表情で、歩きながら肩を上下に動かす。するとゴキゴキと骨が鳴った。 連日、執務室で慣れぬ事務仕事に従事しているせいか、復活してからこちら、肩が酷くこってかなわない。 「あ、アイオロス!」 不意に、下方から明るい声をかけられ、視線を向ける。 「よお、ミロ。どうかしたのか?」 視界に相手を収め、アイオロスは、ひょい、と手を上げて最年少の後輩に笑いかけた。 隣宮の先輩の挨拶に、ミロも笑みを浮かべて、頷いた。 「カミュのところに夕飯を食いに行くんだ。アイオロスは獅子宮に帰るところか?」 復活後、十二宮には各々居住用の別棟を設えられ、黄金聖闘士はそこで暮らしている。 アイオロスの自宮は人馬宮なのだが、獅子宮で弟と夕餉を食し、そのまま翌朝のコーヒーも共にしているので、同輩達からは“獅子宮=ロスリア兄弟宅”という構図が定着してしまっていた。 「ああ、そうだが……。ミロ。昨日もカミュのところで夕飯を食っていなかったか?」 昨夕の記憶を思い起こし、首を傾げたアイオロスに、ミロはもう一度はっきりと頷いた。 「昨日だけじゃなくて、いつもだ」 オレは料理が苦手だから、と屈託なく言い切る後輩に、アイオロスは少し困ったように微笑しながら、軽く頭を掻いた。 「ミロ。だからといってまったくしないのはどうかと思うぞ。料理は出来ないより出来た方がいいからな」 「ん――。でも、上手い奴が他にいるからいいんじゃないか?」 はっきりと言い切られ、思わず納得しそうになるアイオロスだった。 ――同じ頃、宝瓶宮、磨羯宮、巨蟹宮、白羊宮の主が同時にくしゃみをした、ということを知る者は生憎存在しなかった。 『十二宮食事情』(04年11月初出) |
「アイザック、ただいま」 海皇の海洋神殿、その奥まった一角をアイザックが歩いていると、背後からフランス語で呼び止められた。 声をかけられ振り返ると、淡い色合いのスラックスに深い蒼のセーターという出で立ちのバイアンが、親愛のこもった笑みを浮かべて歩み寄ってきた。 同輩の笑顔につられたように微笑んで――アイザックはほんの少し言葉の選択に困ったように口ごもった。 もちろん、それには理由がある。 この奥城には、大洋の一族や海の老人達の神殿へと通ずる《道》がある。 もっとも、ポセイドンを除いてオケアノスやネレウスら海の神々は神代から眠り続けており、他の神々の住まう場所への《道》は不要ゆえに閉ざされていた。 その代わりに海皇はこの《道》を、地上から居住の基点を動かせない海闘士達の為に地上と海界を結ぶ《道》に整え直したのだった。 間違って地上の者が海界に迷い込まないように、出入り口は各々都合の良い場所に設えてあり、《鍵》は海闘士の小宇宙によってしか開かないように出来ていた。 地上では学生の身分であるバイアンもまた、《道》を使って自宅と海界を行き来している。つまり、バイアンにとっては“家”から再度出ていることになるわけだ。 そう、アイザックが躊躇したのは、帰省を告げる挨拶に当然返すべき言葉を使うことだった。 「ただいま」 そんなアイザックの躊躇いを気付いているのか、いないのか。 当たり前のように、バイアンは微笑して帰宅に使用する言葉を口にする。 その笑顔は優しく穏やかで情理がこもっていたので。 その言葉が至極当たり前につむぎだされるので。 アイザックは小さく笑って――自然な口調で、その言葉に適した語を返した。 「……おかえり。バイアン」 『帰宅』(04年12月初出) |
思いもがけない復活劇。 そして、聖域と海界の同盟と、怒涛のごとく雑事に追われた日々がようやく落ち着いた、ある日の昼食時のこと。 十数年ぶりに主を迎え入れ、現在、“海将軍筆頭の実家”として定着しつつある双児宮、その私宮のキッチンにて。 「……カノン」 「なんだ?」 火にかけられ、暖かな湯気を立ち上らせる鍋の前に立ち、手書きのレシピを凝視していたサガが、何故か妙に不安げに、弟を呼ぶ。 その呼びかけに、サラダ用のドレッシングを合わせながら、背中越しにカノンは応えた。 適度な広さに設計されたLDKは、190p近い長身の男二人がキッチンに立ってもそれほど狭いとは感じない。 キッチンの構造上、背中を向けあって立っていた双子の兄は、かすかに困惑をにじませながら、小さな声で弟にこう問うた。 「……『塩胡椒少々』とは何rだろうか?」 ――。 その問いかけに、手を止め、しばし凍りついていたカノンは、ゆっくりと振り返り、訝しげな声音で逆に聞き返した。 「…………なんだって?」 「いや、だから……」 同じく、ゆっくりと振り返り、不安そうに先程の問いを繰り返そうとする兄に、思わずカノンは一喝する。 「どこの世界に『少々』をきっちり計る馬鹿がいるんだ、そこの不肖の兄っ! 薬の処方じゃないんだ、適当でも死にはせんっ!!」 弟のもっともな言い分に、肩をすくめながら、“大雑把”を最も苦手とする兄は、小さな声で反論を試みた。 「…………死にはしなくても、不味くはなるだろう……?」 「――食えばいいだろ、不味くても」 その反論に、カノンは思わず額を押さえて、大きく溜め息をつくのだった。 その傍らで。鍋はコトコトと、ほどよく煮込まれていた――。 『双児宮台所事情』(04年12月初出) |
予想外の復活の後。聖域と海界との同盟も成立し、取り敢えず表面上の落ち着きを得た、ある日の昼食時。 「……」 巨蟹宮のキッチンで、トマトを湯むきしていたデスマスクは、目前の人物から聞かされた実話に、思わず沈黙してしまった。 「……デスマスク。頼むから、何か言ってくれ……」 慣れない手つきでトマトの湯むきをしながら、サガが所在無さげに眉根を寄せて、小さく呟く。 「――いや、あー。なんてーの? あんた、もしかして、料理したことなかったっけ?」 先日、双児宮のキッチンで発生した失敗談?を聞かされ、コメントのしようもなく言いよどんだデスマスクだったが、気を取り直し、そう話題をふってみた。 「……いや。子供の頃は色々と手伝いもしてはいたが……。だが、二十年近くも包丁ひとつ握っていないからな。出来るとは到底言えない」 軽くかぶりを振ってそう答えたサガの言葉に、デスマスクは小さく頷く。 作った経験があるかどうかまでは知らなかったが、料理が出来そうだとは思えなかったからこそ、己のレパートリーの中から簡単そうなものを書き付けたレシピを渡したのだが。 「……なあ、サガ」 不意に、一つの可能性に思い当たり、デスマスクはわずかな不安を感じながら、呼びかけの言葉をつむぐ。 「もしかして……『何分煮込む』とか、『何pほどに切る』とか正確に計ってねえ?」 「…………」 その問いかけに返ってきたのは、気まずげな沈黙。 「計ってんだな……」 思わず、はあ、と溜め息をついてしまったデスマスクだった……。 ――巨蟹宮の料理教室は、まだまだ続きそうである。 『巨蟹宮料理教室』(04年12月初出) |
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