ほう、と無意識にこぼれるのは、本日何度目かの溜め息。 溜め息を一つつくごとに幸せが一つ逃げるぞ、と、三つ下の宮の幼馴染みなら言うところだろうが……。 こればかりは、無意識なのだから、仕方ない。 やはり、無意識に、ちらり、と視線が向くのはシンプルなデザインの卓上カレンダー。 そして、今日の日付を確認して……もう一度、無自覚の溜め息をもらす。 宝瓶宮、その私宮にて。 本日、その宮の主は、あまりご機嫌麗しからぬようそうだった。 理由は、といえば、ある意味では、高尚とは言い難く――別の意味では、もっともなものだった。 カレンダーが示す日付は、二月十七日。 それは、カミュにとっては、一年以上ぶりに再会した弟子の誕生日だった。 離れてしまった一年の間に、属する陣営は違えてしまったが、今のところ、同盟という形での停戦条約は締結しているおかげで、今すぐどうこう、という緊迫感だけはない。 馴れ合いこそないものの、アイザックが宝瓶宮のカミュの元を訪ねてくることを拒む空気もない。 公の使者として行き来があったおかげで、顔を合わせるような機会があれば、黄金聖闘士や海将軍が他愛もない世間話を交わせる程度の付き合いもある。 そう考えれば、両陣営が敵対していた時からすれば、かなり状況は好転していると言えた。 だから、普通ならば、カミュが溜め息をつくような理由はないのだが……。 卓上カレンダーから視線を逸らし、テーブルの上に置かれた小さな包みに目をやって――また溜め息をついた。 折角のアイザックの誕生日。 出来れば、先日の氷河やカミュ自身の誕生日の時のように祝ってやりたかったのだが……。 「やはり、来週か……」 しかし、十日前聞き出したアイザックの非番の日は、今日ではなく三日前。 だが、その日は所用があるとかで、約束を取り付けるというわけにはいかなかった。 誕生日といっても、弟子にも海将軍としての職務がある以上、そうそう呼び寄せるわけにもいかないだろう。 当日でなければいけないというものでもないのだが・・・…。 当日に祝ってやりたかったというのも、本心だった。 せめて、祝いの言葉だけでも贈りたい、などと。 そんなことをつらつらと考えていると――。 コンコン……。 常人の耳なら聞き逃しそうな、小さなノックの音に、カミュは首をひねって外へと続くドアの方に視線を向ける。 戸の向こうの相手が誰か、小宇宙を探って……そして、意外な人物の来訪と知り、軽く目を見開いて、立ち上がった。 「……すまない、少しいいだろうか?」 ドアを開ければ、そこには双子座の黄金聖闘士の姿があった。 「ああ、構わないが……何の用だ?」 中に入るよう、仕草で促しながら、カミュは内心首を傾げる。 甦ってからこちら、サガは双児宮からほとんど離れようとしない。 まして……獅子宮から上に上がることなど、皆無に等しかった。 実に珍しい来客を不思議に思いながらも、部屋の主としての礼儀に則って、室内へと誘おうとした。 「いや、ここで充分だ」 だが、サガは人あたりのよい笑顔で――こういう外面のよさがストレスの原因だと、今更ながらに知ったわけだが――、首を振る。 とはいえ、年長者に対して、では立ち話で、というのも失礼な話だ。 「立ち話もなんだろう? 入ってくれ」 こういう時は、多少、強引に。 それは、カミュが復活後、一つ上の宮の守護者の行動から学んだ対処法だった。 こちらの意見を強く押し出せば、サガは困ったような微笑をにじませて。 「――ああ、分かった」 そう、頷くのだということを知ったのは、甦ってからのこと。 居間のソファに座らせて、いらぬ、と固辞するのも、自分が飲もうと思っていたところだと言いくるめて、茶を出した。 このあたりの対処法は、巨蟹宮の主が手本である。 そうでもしなければ、彼が相手だと話を先に進めるのには手間取るのだ、と、最近になって知った。 そうして、相対して腰を下ろし――珍しい来訪の意図を尋ねる口火を切った。 「――それで、用、というのは?」 カミュが軽く首を傾げて問うと、サガは小さく微笑して、こう言った。 「今日はクラーケンの誕生日だそうだな」 珍しい来客の、更に珍しい――サガから、アイザックにまつわる話題が出た記憶が咄嗟に思い出せないほどに――話題に、カミュは軽く目を見開いた。 その、カミュの驚きの表情に、サガは先の言葉を補填する語を続けた。 「先刻、カノンから連絡があってな」 くどくどと説明せず、一言でその裏まで察せられる固有名詞を口にする。 その名だけで、わざわざ説明せずとも、カノンからアイザックの誕生日の日付を聞いたのだと、すぐに分かった。 海界と聖域の間には、二柱の神の結界が介在している。 その為、テレパスとしての能力が秀でているムウですら、海界にまではテレパシーを送ることは出来ないのだが……。 やはり、双子だからだろうか。 それとも、カノンがシードラゴンであり、同時にジェミニでもあるからだろうか。 少なくとも、この二人に関していえば、海界と聖域でテレパシーを送りあうことは可能らしい。 「誕生日なのだから、休暇でも取らせてゆっくりさせたやりたいのだそうだ。それで、カミュさえよければ、夕方にでもクラーケンを聖域に連れて来たいと言っているのだが……どうだろう?」 サガを経由しての伝言は、予想外の申し出だった。 だが、カミュにとっては渡りに船の提案だった。 「それは――勿論、良いに決まっているだろう」 思わず笑みをこぼしながら、カミュは頷いた。 「そうか。では、そのようにカノンに伝えよう」 カミュの受け入れに、サガは少しほっとしたように微笑んだ。 そうして。 宝瓶宮では、アイザックの突然の非番に対する準備が始まったのだった。 「おや? 珍しいですね」 日が暮れる頃、聖衣を修理する作業所から白羊宮へと戻る。 そのタイムテーブルは、ムウにとってはこの一年弱の間に既に習慣化していた。 今日も、いつものように白羊宮へ戻ろうとし――、十二宮へと至る階段の入り口で、普段ならば見かけることの無い相手を見かけたムウは、軽く目を見開いて、そう言葉を投げかけた。 「――ああ。邪魔をするぞ」 「カミュのところまで通らせてもらいたいんだが、いいだろうか?」 出会い頭で顔を合わせる形になった相手――カノンとアイザックは、白羊宮の守護者に、それぞれなりの言い方で、通り抜けの断りを述べた。 色々とややこしい立場ながら――世間的には、“サガの双子の弟”と公表されているシードラゴンと、“アクエリアスの弟子”であるクラーケンだ。元々敵対しあっていた陣営としては微妙な立場だろう――、この二人が聖域側と軋轢を発生させていないのは、こういった礼節をわきまえているからだろう、というのが、ムウの見解だった。 「初めてではありませんか? 公用でも無いのに、貴方がたが連れ立って聖域に来るなど……」 二人のいで立ちを見直しながら、ムウは軽く首を傾げた。 海界側の使者として聖域にやってきたならば、海将軍の正装である鱗衣をまとって訪ねて来る。 だが、今日の二人はどちらも私服だった。 無造作にダークグレーのロングコートを引っ掛けただけのカノンは、いつもどおり、非番に聖域に現れる時と変わらぬ簡素な服装だったが。 アイザックの方は、いつものように素っ気無い服装ではなかった。 白いハーフコートは、色こそ薄いものの、生地は厚めで暖かげで。 それに瞳の色と同じ緑のセーター。 それらに色合いをあわせたマフラーを、少し小洒落た形に結び。 そして、はいているところを見たことの無いスラックスにツートンカラーの靴。 運動性を重視するいつものいで立ちとは違って、大人っぽい印象を与えるコーディネイトだった。 だが、元より年齢より大人びた少年であるし、何より色合わせが髪や瞳の色ともしっくりくる。 誰が見立てたかは知らないが、よく似合っていた。 しかし。 二人とも私服、ということは、公用ではなく私用、ということになるのだが――。 一瞬の内に、そこまで思考を巡らせ、ムウは首を傾げる。 アイザックが宝瓶宮にカミュを訪ねにくるのは、珍しいことではない。 なにせ、別れ別れになった状況が状況なのだから、再会の喜びはそう容易く冷めるものではない。 カノンが双児宮の様子を見に来たのも、一度や二度ではない。 甦った後のサガの自己嫌悪による落ち込みようは相当なもので、一応、それなりにフォローを入れる必要があったという判断が、カノンにはあるのだろう。 しかし、二人が同時に聖域を訪ねたことは――公務でも、一度もなかったことだ。 ムウの当然ともいえる問いかけに、カノンは軽く肩をすくめて嘆息した。 「聖域の入り口手前までのつもりだったんだがな……。出しなに部下達に、一時間は戻ってくるな、と釘を刺された」 不本意そうに応えるカノンに、軽く首を傾げながらアイザックが口を開く。 「それは仕方ないと思うぞ、カノ」 「アイザック!」 まさにその時。 アイザックの語尾に、重なるように上がったのは、彼を呼ぶ歓喜の声。 その声に、アイザックが振り返れば。 十二宮の階段を早足で下りて来るカミュの姿があった。 「カミュ……!」 師の呼びかけに、アイザックもまた、満面に喜色を浮かべて応える。 そして――クールを信条とするシベリア師弟の熱い抱擁……とは、ならなかった。 常ならば、(氷河も含め)この弟子は、師の呼びかけに即座に駆け寄るのだが、今日ばかりはどうも様相が異なった。 厚い情理のこもった眼差しも。 熱情のにじむ声音も。 彼ら師弟の再会劇にはつきもののオプションは、いつもどおりにふり散らされているのだ。 だが、今日のアイザックは――普段、カミュの見知った様相よりは、ほんの少し、落ち着いた大人びた感じがした。――服装もそうだが、表情や仕草も、だ。 確かに、普段から、ローティーンとは思えぬ大人びた弟子なのだが。 それとは違う――そう、今、アイザックがまとう雰囲気は、上位に立つ者に望まれる類の落ち着きだった。 そして。 同時に、カミュにはどこか覚えのある感覚でもあった。 刹那の間に、探索された記憶巣からひとつのすくい上げられる。 ――そう、それは。 何度目かの、同盟内容を取り決める使者が送られた折のこと。 聖域側からの最初の使者として海洋神殿に足を踏み入れた時のこと。 第一度目の聖域側と海界側との意見交換を一段落させた後、海皇の勧めで海洋神殿に一泊することになったのだ。 その時の――周囲に他の海将軍や配下の者達がいた状態でのアイザックの様相に、似ていた。 ――配下の前で――海将軍らしく、堂々と落ち着いた姿を見せていた、あの時と同じ雰囲気だった。 「――久しぶりだな、アイザック……」 お馴染みの抱擁が不発に終わった為か、若干――中途半端なテンションで、カミュは十日ぶりに会う弟子に、再来をねぎらう挨拶を告げた。 その師の言葉に、アイザックも微笑んで頷く。 「はい。先生もお元気そうでなによりです」 アイザックの顔に浮かぶのは、カミュにとっては見慣れた、年不相応の大人びた表情の裏に喜色をにじませた笑顔。 その笑みは、感じた違和感を払拭するには充分なもので。 カミュは微笑みながら、弟子へと歩み寄り――そして、アイザックの姿を眺めなおして、呟いた。 「似合うな」 「――え?」 師の不意の言葉に、アイザックは戸惑ったように首を傾げ――そして、その意図を察し、納得したように軽く頷いた。 「……ああ、これは、仲間達からの誕生祝いなんです」 身に着けた衣服を軽く指でつまんでみせながら、アイザックはそう応えた。 そして、はにかんだように目を細め、微笑む仕草には、喜色がにじんでいた。 その笑みは、本当に嬉しそうで。 また、至福に満ちていて。 隠さない感情が広がるその表情は、普段のローティーンとは到底思えない落ち着いた様相とは異なり。 そして、出で立ちの大人びた雰囲気とも異なる、年相応の――少年らしさが垣間見えた。 そんな“子供らしい”アイザックの表情も、また、カミュには馴染みのないものだった。 「……」 不自然に止まった会話のテンポと、微妙な気配を宿しつつあるカミュの小宇宙。 それらによって、妙に停滞しつつある場の空気を動かすように、ムウはさり気無く先の話題を引き戻した。 「そういえば。先程言いかけた、仕方が無いとは?」 何気ない風を装って、アイザックに問いかける。 話題を急に引き戻され、アイザックは首を傾げながらも、律儀に答えた。 「――ああ。いつものことなんだ。カノンが副官達に、仕事の手を抜かないのはいいことだが少しは休んでくれ、と言われるのは」 アイザックの言葉に、ムウはほんの少し目を丸くして、視線をカノンへと動かした。 「……そんなに、貴方は働き者だったんですか? カノン」 部下に“働くな”とまで言われる上司、というのは……普通、あまり聞かないものだ。 逆をかえせば、部下にとって見過ごせないほどに、仕事をしているということになる。 「普通だ。そこに仕事があるから、しているだけだ。第一、他に何をすることがある?」 ムウの問いかけに、カノンは平静にそう応じた。 至極、当たり前のように返ってきた言葉に、ムウは思わず呆れを含んだ吐息をこぼした。 仕事がそこにあるからする。 まあ、それ自体は真っ当な感覚だろうが……。 確かにカノンの言うことにも一理あるだろうが……。 他にすることがない、というのは……あまりにも無味乾燥ではないだろうか? ――外見はともかく、無趣味なところは遺伝子では決定されない筈なんですけどねえ……。 思わず、二つ上の宮の主を連想し、再度の嘆息をこぼすムウだった――。 「だが、書類を一段落つけないと食事にも手をつけないと、皆、心配しているぞ?」 表情には出さずに呆れ果てたムウの代わりに、口を開いたのはアイザックだった。 横合いから、そう指摘すると。 チッ。 カノンの口から、小さく、舌打ちの音が漏れた。――舌打ち、といっても、苦々しい、というよりは、やられた、というような意味合いをまとうものだったが。 そして、独り言のように、小さく呟く。 「――やはりな。奴ら、結束していたか。どおりで食事の時間の度に、わざわざお前がオレの所まで来るわけだ」 ちらり、と向けられたカノンの視線に、一瞬アイザックはひるんだように上体を背後に引いた。 それでも、反論は試みる。 「それは……。だが、食事は決まった時間に必要量摂らないと不健康だと、そう言っていたぞ」 やや、上目遣いに。 子供が言い訳でもするような、そんな仕草と口調で、アイザックは言い返す。 その反論に、カノンは溜め息混じりに吐息をついて、また、独語めいた呟きをこぼした。 「成長期でもあるまいに……。これ以上育たんのだから、多少不規則でも身体に害はないだろうが。大体、ここでする話でもあるまい?」 「ですが、アイザックやそちらの配下の方々が言うのももっともでしょう。食事が不規則なのは、充分、身体に害を及ぼすと思いますよ?」 内輪の話を外でするものではない、とアイザックをたしなめるカノンに、横合いから表面和やかに――ムウの指摘が入った。 カノンの発言の前半部分を、オブラートに包みながらもざっくりと斬りこんできたムウの意見に。 言われた当のカノンは軽く眉根を寄せ……アイザックは、同意を示して、うんうん、と大きく頷く。 そして。 「…………」 なんとなく、口を挟みにくい弟子とカノンのやり取りを、微妙な表情で眺めていた人物が一人。 「――ああ、アクエリアス。少しいいか?」 不意に呼びかけられ、わずかな疑問符を眼差しににじませるカミュを、カノンは軽く手招き手振りで、耳を貸せ、と告げる。 「? なんだ?」 首を傾げて聞き返しながらも、カミュは側に近づき、促されるままに顔を寄せた。 その耳元に口を寄せて、声を潜めてカノンが告げたのは……。 「明日の昼過ぎには、迎えに来させてもらう」 その一言だった。 表情だけで、言葉の意図を伺うカミュに、カノンはさらに言葉を重ねた。 「オラフ――北氷洋の次席の奴だがな、そいつからくれぐれも、と念を押されているんだ」 言いながら、小さくカノンは苦笑をこぼす。 そして、そっと肩をすくめて、こう続けた。 「北氷洋の連中は、誕生祝いの計画を立てていたようでな。当日は師匠に譲る代わりに、明日の夕方は自分達の好きなようにさせろ、と言われたのだ。協力してくれ」 苦笑気味にそう言うカノンの声音には、呆れたような響きと同時に、配下の者達への微笑ましさもにじんでいて。 海界の結束の固さと共に、自らの弟子がいかに海闘士達から大切にされているか、をうかがい知るには充分なものだった。 「…………ああ、分かった」 大事な初弟子が大切にされていることを嬉しく思う気持ちと。 その弟子が、自分の手元を離れているような寂寥感と。 双方の心境を同時に味わい、カミュは浮かび上がってきそうな複雑な表情を、意志の力でなんとか押し込める。 そして、表面上は平静に、頷いた。 「アイザック」 カミュの同意に、すまんな、と小さく礼を言うと、カノンは今度はアイザックを振り返った。 じっと、師とカノンのやりとりが終わるのを待っていたアイザックは、その呼びかけを受け、真っ直ぐにカノンへ視線を返す。 「今晩はゆっくりと休んでいけ」 アイザックに対してそう言うと、カノンはカミュの肩を軽く押し出すようにたたいた。 そして、アイザックには、顎先でそっと十二宮の上を指し示す。 早く行け、と促す仕草に、アイザックは素直に頷いた。 肩を押され、弟子の側へと戻ったカミュと共に十二宮の階段を上がろうとして――。 ふと、足を止め、アイザックは振り返った。 「カノン……!」 急に振り返り呼びかけられ、軽く首を傾げたカノンに、アイザックは言葉を選びあぐねたように口を開閉する。 そして、思い切ったように、ごく短い言葉でそれを告げた。 「あの、……ありがとう」 小さく微笑んで、礼を言うアイザックに。 カノンもまた、微笑して――気にするな、と手振りで告げた。 それを。 ムウは微笑ましげに笑い。 カミュは複雑な表情で眺めたのだった――――。 ――――水瓶座のカミュ。二十二歳(誕生日迎えたて)。 “長男を他所に養子にやった気分”とは、こういうもんかと思わずにはいられない、今日この頃だった…………。 了
2005年文月上旬 |
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