○日△日 今日、ドリスお祖母様がいらっしゃいました。 それも、珍しいことに父上に御用です。 しかも、お祖母様は、そのお美しいお顔に不愉快そうな表情を浮かべ、不機嫌にしか見えない様相でいらっしゃいました。 一体父上に何の御用かと、かげながら様子を窺っていたところ、どうやら一人の人間が不快の原因だそうでした。 お話を窺った限り、確かに不敬極まりない話だと、僕も思いました。 なにせ、お祖母様のおっしゃるには、 「エチオピアの地にはケフェウスという王がおります。その妻にカシオペアなる女が、言うに事欠いて、己とその娘・アンドロメダは、ネレイデスよりも美しい、などとのたまったのです。そう、わたくしの――我が夫の娘達が、寄った小皺を化粧で誤魔化しているような女に、板切れ同然の薄平たい胸の小娘に劣るなどと、身の程知らずも甚だしい思い違いを、愚かにも公言してみせたのです!」 ということなのですから。 母上やテティス叔母様より美しい女性など、神々の中でもそうはいらっしゃるまい。 よくもまあ、そんな呆れ果てた思い上がりが口に出来るものです。 ただ、応対する父上はお祖母様の豊かな胸元を眺めながら、無言でなにやら考え込んでいらっしゃいましたが……。 その父上の様相が意味するところに勘付いたらしきお祖母様は、柳眉をいっそう険しくなされました。 「――――婿殿。妻の母の目前で、今、何を考えておりました?」 「…………いえ、何も」 お祖母様の静かな詰問に、はっとしたように父上は誤魔化そうとなさいましたが、時既に遅し、です。 「――まことですか? 御身の名にかけて、今は小娘でも数年後ならばと考えなかったと、美女というならば一目見てみようなどと思わなかったと、浮気の虫が騒いだなどということはないと、誓えますか?」 「……………………姑殿、で、御用件はなんでしょう?」 否定出来ず、父上は視線を逸らし、強引に話題を変えようとなさいました。 父上。 母上が侮辱されたというのに、馬鹿なことを考えてばかりいらっしゃると、僕も見捨てますよ? 「用件など、決まっておりましょう。身の程知らずの人間に罰を与えるのです。今すぐ、エチオピアの海に大いなる獣を放たれなさい」 「――わたしが?」 「当然です。王妃の罪は国の罪。罪は迅速に咎めねば、罰の意味がありません。さあ、迅く為されませ」 「しかし――」 わたしが為すより姑殿が為された方が早いのでは、と言おうとなさったのでしょう。 ですが、父上が言葉を続けるよりも、お祖母様の行動の方が早かったのです。 一瞬の後。 お祖母様が取り出した大槌が、父上の鼻先を掠め、床にめり込んだのでした。 ほんの一歩分ずれていたら、エイのように父上が平たくされていたこと、必至です。 「――口を動かす暇があるならば、身体を動かしなさいませ。妻への侮辱を雪ぐは夫の務めでございましょう! そも、常日頃、あちらの女、こちらの女、と節操なく軽薄に振る舞っているのですから、たまには婿の務めの一つや二つ、果たしては如何か! それが果たせぬというならば、迅く往ぬるがよろしい! 孫達が生まれているの以上、種馬など既に用済みなのですからね! 婿として扱って欲しいならば、口答えなどせず、早々に言われたとおりになさい!!」 神殿中を揺るがしたお祖母様の一喝に――果たして誰が逆らえましょうや。 お祖母様がお帰りになられた後、“婿の務め”を為される父上の背中にはたっぷりと哀愁が漂っていらっしゃいました。 ――――最初から逆らわなければ、あそこまで言われずに済んだのに……。 『神代の日常〜トリトン日記8〜』(06年9月初出) |
□月□日 ――久方ぶりに日記をしたためます。 とにかく、日々大変で、そんな暇はなかったのです。 話は、お祖母様がエチオピアの一件で怒鳴り込んできた少し後にまで遡ります。 神盾 簡単に言ってしまうと、この男、ポルキュス大叔父様とケト大叔母様の末娘でいらっしゃるメドゥサ殿を殺害するという暴挙に出たのです。 最初は、姉妹のお二人にも妹御が何ゆえ亡くなられたのか、また、犯人が何者かも知れず、大層混乱していらしたそうです。 その殺害者の正体が知れたのは、他でもないエチオピアでの一件でした。 ドリスお祖母様の逆鱗に触れたエチオピアの王妃に対する咎めとして、その娘を父上が差し向けた海獣の生贄とすることと相成ったのですが、それを妨害したのが件のたわけ者だったのです。 その折に、そのうつけ者がメドゥサ殿の首級を所持していることが発覚し、メドゥサ殿を殺害した咎人の正体が知れたというわけです。 もとより、メドゥサ殿はご不幸な身の上と聞きおよんでいます。 ゼウスの娘御に惨い仕打ちを受けられ、呪われたお姿になってしまわれてからは、周囲をはばかり人里離れた辺境でご姉妹方とひっそりとお暮らしだったと窺っています。 そのたわけた輩はただ適当に交わした口約束の為だけに、そんな哀れな御方を更なるご不幸に追い込んだのです。 しかも、その後押しをしたのは他ならぬゼウスの娘御と伝令神だというのです。 以前の事柄はあえて咎め立てせずにしておられた大叔父様と大叔母様も今回ばかりはお許しになりませんでした。 大叔父様方は海神としての務めを放棄なされ、ご一族揃ってお姿を隠してしまわれたのです。 ――この場合、ポルキュス大叔父様、ケト大叔母様、そしてその娘御方ばかりではありません。 タウマス大叔父様などは姪御のご不幸に大層激怒なされ、娘御であられるハルピュイアイに思うがままに空を駆け回り荒風を起こすよう言いつけられ、嵐を起こすだけ起こして、エレクトラ大伯母様ともども、お姿を隠してしまわれたのです。 そればかりか、ネレウスお祖父様とお祖母様も、おば様方ともども、務めを放棄なされ身を隠してしまわれたのです。 無論のこと、母上や姉上達もです。 かくいう僕も、母上達がお祖父様の元に参られる際、共に行くかと声をかけられたのですが、流石に父上を残していくのは憚られ、残ることに決めたのです。 一応、父上も恋人を殺害されたばかりで、ご傷心の身ですし、息子として見捨てがたかったのですが……。 今となっては見捨てて我が身を優先すべきだったと後悔しています。 まさか、オケアノスひいお祖父様とテテュスひいお祖母様も大おば様方と共に音信を絶たれてしまうとは思わなかったのです。 大おじ様方にご消息を窺っても、己の領地である河川の外のことは知らぬ存ぜぬで取り付く島もない有様。 結果的に、この広大な海を僕と父上だけで治めねばならなくなったのでした。 無理です。 出来ません。 手に余ります。 おかげで、僕と父上は激務による過労で倒れる寸前にまで追い込まれたのです。 そんな折でした。 ケト大叔母様のお言葉の記された氷柱が何処からか流れてきたのは。 その氷柱を見つけたのは父上で、僕は拝見していないのですが、なんでもこのように刻まれていたそうです。 『アテナが地に手をついて頭を下げて謝罪するならば、吾ら一同、職務に戻っても良い』 ……つまり、僕と父上は完全にとばっちりを受けたわけですよ、ええ。 実際に、ゼウスの娘御が大叔母様方のおっしゃるとおりにしたのかどうかは知りません。 オリュンポスと大叔母様方との交渉を取り持ったのは父上で、僕はひたすら職務に忙殺されていたのですから。 ただ、先日になってようやく皆様がお戻りになられ、職掌を果たしてくださるようになったという事実だけで、僕には充分です。 ――――ちなみに。 件の愚か者には、“長ずれば祖父を殺す”という予言が下っていたそうですが、僕がひたすら海を鎮めている間に、競技会で投げた円盤が風に流され、観戦していた祖父の頭部を直撃し、即死せしめたという話です。 風――――何か、作為的なものを感じてなりませんが……触れないでおこう……。 『神代の日常〜トリトン日記9〜』(06年10月初出) |
□月×日 近頃、芳しくない話題が多かった海界に、久方ぶりにめでたい話題が生まれました。 僕に新しい再従兄弟と異母兄弟が出来ました。 と、いっても、それぞれ別に生まれられたわけではなく、生まれられたのはお一方だけです。 どういうことかと説明する為には、話を少し以前の事柄から始めねばなりません。 先頃、ご不幸の上に更なるご不運を浴びせられてしまわれたメドゥサ殿が、何某とかいうたわけ者――あまりに汚らわしいので名を表すことすらしたくありません――の手にかけられておしまいになって間もない頃に、話は遡ります。 突然、姿無き何者かの手によって妹御の首級を斬り落とされ、姉君のステンノ殿とエウリュアレ殿は妹御の首級と殺害者を探し回られたのだそうです。 けれど、メドゥサ殿の首級も、その殺戮者も、結局見つけ出すことが出来ず、ステンノ殿とエウリュアレ殿は悲嘆にくれながら、西の彼方にかまえられた隠遁の地に戻られたそうです。 そこで、妹御の亡骸の代わりに、メドゥサ殿の血でしとどに濡れたご寝所で呆然と座り込んでいらした、若い神を見つけられたのだそうです。 近しい血を同じくするものゆえに、ステンノ殿とエウリュアレ殿には、その若い男神がメドゥサ殿から生まれた方であると一目でお分かりなったそうです。 そして、お二方は、その若い神を、ご姉妹方の父君、母君でいらっしゃるポルキュス大叔父様とケト大叔母様の元へお連れになられたのだそうです。 大地母神の胎からお生まれになった大叔父様と大叔母様には、僕達のように下がった世代の神よりも広く見える御目をお持ちのようで、お二方は、その若い神とお会いになって、その方につながる縁が何処につながるものか、一目でお分かりになったそうです。 そして、その方が亡きメドゥサ殿と父上の間にお生まれになった方だと判じられたのです。 父上の御子を宿したまま、命を摘まれてしまわれたメドゥサ殿は、最後の力を振り絞り、己の亡骸を再構築することによって胎内に残った御子に身体を与えられたのだろう、と、大叔父様と大叔母様はおっしゃられていました。 そういった痛々しい経過でお生まれになったメドゥサ殿の忘れ形見は、ただ今は大叔父様と大叔母様のお手元にいらっしゃいます。 メドゥサ殿のご不幸があったばかりですから、その忘れ形見の身の安全を大層案じられており――お気持ちは、とてもよく分かります――、きちんと身をお守りになれるように為してからではなくては、館の外に出すおつもりはおありでないようなのです。 ですので、父上を同じくする異母兄弟 メドゥサ殿のご両親はポルキュス大叔父様とケト大叔母様であり、母上とはご従姉妹――つまり、母方で辿れば僕とは再従兄弟 なのですから、とても近しい間柄なのですから、早くお会いしたいのに……。 訪ねたくても、大叔父様と大叔母様の館は、簡単にはお訪ね出来ないところなので、今はあちらから会いに来て下さるのを待つしかない次第です。 早くお会いしたいものです。 そうしたら、今度は、かつてのオリオンのようなことがないよう、危険なことがないように大切にして差し上げたいと思います。 ――早く、お会いしたいな。 『神代の日常〜トリトン日記10〜』(06年11月初出) |
□月△日 さて。 近頃、海界は心躍る忙しさが続いているわけですが。 エウリュノメ大叔母様の娘御から伺ったところによると、ヘパイストス従兄上の鍛冶場も、このところ何かとお忙しいのだとか。 その理由は、海界と同じ――まだ対面の機会を得れずにいる僕の異母兄弟殿なのだそうです。 なんでも、メドゥサ殿の一件があっただけに、御孫君の安全をたいそうお気にかけていらっしゃるポルキュス大叔父様とケト大叔母様が、ヘパイストス従兄上に、その方の身の護りとなるものを作って欲しい、とご依頼なされたのだそうです。 如何にもお優しい大叔父様やお心の細やかな大叔母様らしいお話です。 そして、それを聞き及びになられたタウマス大叔父様やネレウスお祖父様も、弟妹方のお心に感銘を受けられ、お二方であるご計画をお考えになられたようなのです。 そのご計画というのは、メドゥサ殿の忘れ形見に、身辺を護るような側仕えの者を置く、というものだそうです。 そして、ヘパイストス従兄上に、その守護者に与える防具を作っていただき、お二方それぞれが、その防具に直々に加護をお与えになろう、というものだったそうです。 そのご計画は、オケアノスひいお祖父様やテテュスひいお祖母様の耳にも届き、お二方のお考えをお知りになったひいお祖父様方は、お二方のお優しい思いつきにご協力なさりたいと思われたのだそうです。 そこで、諸河の大おじ様方に、守護者に相応しい者を探して欲しい、とお申し付けになられたのだとか。 また、ひいお祖父様、ひいお祖母様からも、その守護者にご自身が加護を与えた防具を授けようとお考えだそうです。 そのお話を打ち明けられたポルキュス大叔父様とケト大叔母様も、たいそう喜ばれ、ならば、と、ご自分達からも、同じように防具の製作をヘパイストス従兄上に再度ご依頼なされたとのこと。 更に、この話には続きがありまして。 これらの経緯を伝え聞いた父上が、父親として黙ってはいられない、とばかりに、ご自分も同様になさりたい、と言い出されたのです。 と、いうことで、ヘパイストス従兄上の元には先にあったご依頼に重ねて、父上からもご依頼が追加されていらっしゃることでしょう。 七体もの防具の製作が重なっているのですから、きっとお忙しい筈です。 ヘパイストス従兄上にもご無理はしていただきたくはありませんが――異母兄弟殿のご安全の為にも、良き防具を作っていただきたく思います。 『神代の日常〜トリトン日記11〜』(07年1月初出) |
「海の守護者?」 母アンピトリテと同じ濃紺の双眸を見開き、軽い驚きの響きを乗せて訊ねかえすトリトンに、クリュサオルは、こくり、と頷いた。 「海龍 問い返しに応えて、説明を補足すると、トリトンは案ずる色を目に宿し、手綱で作られたクリュサオルの腕の輪の中で、わずかに身を乗り出す。 「話を聞くだけでも、なんだか荒事の気配を感じるんだけど……」 「そんなことはないと思う。要は七つの海の間での調和を乱さないように調整する役目だから」 「でも、あちこちに出歩く役目になるでしょう? ああ、心配だなあ」 嘆息交じりで、トリトンは、手綱を握るクリュサオルの、鱗衣に覆われた腕に己が手を乗せた。 馬体の横では――クリュサオルの操る、半身は魚の馬に、トリトンは横乗りになっているのだ――、白い長衣の裾から覗く、淡く銀を帯びた薄物のような尾鰭が、心中を語るようにゆらゆらと揺らめいていた。 「トリトンは心配性だね」 「僕は、荒事は嫌いだもの」 薄く微笑んでクリュサオルが呟けば。 微かに眉根を寄せて、トリトンはもう一方の手を伸ばし、そっと、クリュサオルの後頭部に掌を沿わせる。 「大丈夫。海龍達がいつも傍にいてくれるから」 心配性の異母兄弟に、クリュサオルは微笑みかけ――、ちらり、と背後に視線を投げかけた。 トリトンとクリュサオルの兄弟を乗せた馬から、彼らの邪魔にならぬ程度に距離を取り――しかし、何事かあれば即座に対応出来る距離は確保して――、随従するのは、海龍ら、クリュサオルの護衛役六人。 「それに、わたしは、自分の役目が出来ることが嬉しいよ」 微笑しながら、ぽつり、とこぼしたクリュサオルの一言に。 トリトンは不思議そうに首を傾げた。 「わたしも、トリトンが嵐を鎮めるように、海神として自分に為せることを全うしたいと思うよ」 クリュサオルがそう言えば。 トリトンは小さく吐息をもらして、こう呟いた。 「クリュサオルは真面目だよね」 「そうかな?」 「そうだよ」 言いながら、つい、と、クリュサオルの後ろ髪を摘んで引っ張る。 微笑みながら、その指先から逃れるように首を捻る。 そんな、じゃれあう兄弟の姿を、遠目で見守る六人の守護者が、微笑ましげに眺めていた。 『神代の日常〜トリトン日記・番外編〜』(11年1月初出) |
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