――レムノス島。 その地にひっそりと存在する、黙の神殿。 花の季節など知らぬげに常時咲き乱れる芥子の花弁を蹴り飛ばしかねない勢いで、ずんずんと歩みを進める影がひとつ。 突き進んでいったその先には。 花苑の中、膝をそろえて座り込む、弟であり甥でもある夢の神 そして、その傍らには手足を投げ出して寝息を立てる、幼い弟達の姿があった。 「――タナトス兄上?」 訪問者の気配を察したのか、――年の長幼と色彩を除けば――自身とまったく同じ顔が、こちらへ向けられ小さく首を傾げてみせた。 しかし、弟神の問いかけにも似た呼びかけには応えず、訪問者――タナトスは、裾さばきも荒く歩み寄ると……。 「起きろ、ヒュプノス」 不機嫌そうな声音で一言そう言い捨て、弟神の揃えた膝の上――正確には太腿の上――わずかに高い位置で一蹴した。 一瞬遅れて、夢の神の悲鳴にも似た絶叫が上がる。 「――父上!?」 タナトスの足によって、膝の上に乗っていたもの――ヒュプノスの頭部は、人間ならばありえない方向へ首を曲げ、息子の膝の上から蹴り出された。 慌てて父神の側に駆け寄ろうとした夢の神の襟首を無造作に掴み上げると、タナトスは弟神の顔を己のそれの間近に寄せる。 長身のタナトスに吊り上げられ、弟神の両足は宙に浮き、まるで首根っこを掴まれた猫のようだった。 眉を吊り上げ、銀の双眸に険しい光を宿すタナトスの様相に、兄神とは色の異なる両眼を丸くしながら、夢の神は小さく口を開いた。 「……兄上? どうかなさいましたか?」 「――どうか、だと?」 困惑もあらわな弟神の問いかけに、タナトスはいっそう眦を吊り上げる。 「己と同じ顔が、同じ顔の息子の膝枕で寝ている姿を見せられて、機嫌が良い筈があるか! ええい、気色の悪い!!」 目と鼻の先で上がった怒声に、モルペウスは思わず掌で耳を押さえる。――その足元で眠る二柱の幼年の姿をした神々は健やかに寝息をたてていたが。 「大体だ! いつもいつも、何故こやつは外で寝たくっているのだ!? 寝台にほりこんでおけ!!」 「それは……屋外の方が風が心地良くてよく眠れるのだそうです」 真顔で返された返答に、一瞬、反応が止まったタナトスだったが、気を取り直したのか、再度怒号を上げる。 「それにだ! お前も、膝枕などするでないわ!!」 「……頭が高い方が寝心地がよいとおっしゃるので……」 「…………」 ――ぷち。 ……その時。静寂に包まれている眠りの神の神殿に、元々丈夫でないタナトスの堪忍袋の緒が切れた音がした――。 続いて響いたのは……。 ずだん!! ……渾身の力をこめたタナトスの一踏みによって、ヒュプノスの頭が地面に押し付けられた鈍い音だった。 「兄上!? 父上が死んじゃいます!!」 「神が死ぬか!!!」 そして、モルペウスの絶叫と、タナトスの怒声が、鳥の声も虫の音も聞こえぬ静寂を切り裂いて響いたのだった――。 レムノス島。 その地にある神殿で、眠りの神は夢の神々 『神代の日常―レムノス島の日常1―』(05年10月初出) |
「父上――。起きて下さい、父上」 耳に馴染んだ、少年の澄んだ高音が呼びかける声に、己が司る眠りの淵にあったヒュプノスの意識は、ゆっくりと現実へと引き寄せられる。 うっすらと瞼を上げれば、見慣れた白金髪 間近にあったのは、半覚醒の意識の内でも見誤ろう筈のない、我が子の顔。 最愛の母が産んだ、愛しい息子。 「……モルペウス」 寝惚け眼のまま、そっと微笑むと、ヒュプノスは軽く腕を伸ばし――傍らにつかれた細い手を掴む。 そして、もう一方の腕で、眠る父親の顔を覗きこんでいた息子の身体を引き寄せた。 「ちちうえ……っ?」 少年の細い身体は、容易くヒュプノスの腕の中に引き入れられた。 抱き寄せられ、顔を父親の胸元に押し付けられると、むぎゅ、といささか妙な声を発し、モルペウスは不自由を厭うように、身動ぎをする。 しかし、――意識は半分眠ったまま――ヒュプノスはモルペウスを両の腕で抱き囲い、その抵抗をあっさりと封じ込めた。 白金の頭髪に顔を埋めるように抱き寄せれば、ふわり、と罌粟 腕に抱いた花香と温みは、安らかな眠りを引き寄せるには似つかわしく。 それに満足したように、ヒュプノスは瞼を閉じた……次の瞬間。 ザシュ……! 空を裂く音が、静寂の神殿に木霊した。 「何をするか。タナトス」 気配を察し、黒檀の寝台から身を翻し跳ね下りたヒュプノスは、平常の口調で静かに口を開いた。 「……タナトス兄上がおいでになられたので起きて下さい、と申し上げようとしていましたのに……」 そのヒュプノスの腕に、背と膝裏を支えられる形で抱きかかえられたモルペウスが、ぽつり、と呟く。 ついたった今までヒュプノスの頭が乗せられていた枕は無残に裂け、同じく裂け目が生じた布団からは、ふわりふわり、と羽根が舞っていた。 その、羽根布団と同じ色の黒い羽毛が舞うその先で、肩を怒らせ立っていたのは双子の兄である死の神だった。 「それはオレの台詞だ! 己と同じ顔をした男が、己と同じ顔をした息子を寝床に引きずり込む光景を見せられて、心穏やかでいられる奴がいると思うか!!」 わなわなと肩を震わせ、その身を覆う小宇宙には怒気をまといつつ、タナトスは怒号をあげた。 だが、非難された当の相手は、といえば。 「――分からぬ。何を怒っているのだ、タナトス」 苦情の意図が理解出来ないとばかりに、眉根をしかめる。 ……その仕草が、死の神の敏感な逆鱗に触れた。 「…………フッ……フフフフフ……いっそ、そのまま、二度と目覚めるな、ヒュプノスよ……」 一言ずつ区切りながら、異常に低い声音で発せられたのは、物騒この上ない死神の宣告だった。 その言葉がただの脅しではないことは、じわりと高まる小宇宙に宿る殺気でも明らかだ。 「――タナトスよ。それが他者の館に赴いた者の態度か?」 普段ならば、受け流すタナトスの売り言葉だが。 眠りを邪魔された上、起きぬけに喧嘩を売られたヒュプノスもまた――気分を害していた。 売られた喧嘩は最高値で買ってやろうとばかりに、ヒュプノスの小宇宙もまた一気に重圧を増した。 ――そんな、兄と父に挟まれ。 逃げるに逃げられない夢の神は小さく溜め息をつき。 そっと天井を仰ぐのだった……。 その頃。 冥府では、未だ現れぬ従神達に、冥王が気をもんでいたとかいなかったとか……。 『神代の日常―レムノス島の日常2―』(06年1月初出) |
「ヘパイストスが落ちてきただと?」 レムノス島。 そこには、太陽の光に照らされることを拒むかのように佇む、罌粟の花苑に囲まれた黙 心進まぬながら――何せ、訪問する度、己と同じ顔の双子の片割れが、年の長幼と色彩を除けばそっくり似通ったその息子――己の甥であり同時に弟でもある――と、父子の範疇を若干逸した睦まじさを見せられるわけであるから、出来るならば見たくない光景だ――、眠りの神の神殿を訪れた死の神は、不審極まりない、といった様相で眉を寄せ、訝しげに口を開いた。 「何故だ? 一体、何があって、何処から、鍛冶の神が落ちてきたというのだ、ヒュプノスよ」 何を訳の分からぬことを、とでも言いたげな口調で聞き返すタナトスに、ヒュプノスは常どおりの無表情で静かに応じた。 「分からぬ。だが、ヘパイストスが落ちてきたことは事実だ」 感情の起伏を表に現さず淡々と語るヒュプノスに、タナトスは苛立たしげに眉根を吊り上げる。 「……落ちてきたヘパイストスはどうなったのだ」 「この島に住むシンティエス人達がすぐさまヘパイストスを見つけ、手当てを施したようだ」 しかし、と、ヒュプノスは、更に言葉を続けた。 「地に叩きつけられた折に両足を傷めたらしい。傷の具合が思わしくないと聞く」 世間話というよりは報告、といった印象を受ける語調でつむがれるヒュプノスの話を聞きながら、タナトスは葡萄酒の注がれた杯に口をつける。 その瞬間、双子の片割れの口からこぼれた一言に、タナトスは一瞬、動きを止めた。 「傷を癒すことは出来ぬが、せめて痛みだけでも和らげてやりたいと、先刻からモルペウスが見舞いに行っている」 ヒュプノスと、彼が至上の愛を捧げて止まない母ニュクスの間に生まれた、甥であり同時に弟でもある夢の神の名に、タナトスは意外の念を感じた。 世界のすべてを父親中心に見ている節が多分にある、あの弟が、他者の為に率先して動くとは思いもよらぬことだった。 そう思いながら視線を双子の片割れへと向けなおし――タナトスは眉間に深く皺を刻みながら、大きく溜息をこぼした。 「…………ヒュプノスよ。モルペウスが怪我人の見舞いに行くことが気に食わんのか、お前は」 ほぼ、無表情の眠りの神の白皙の美貌。 その、眉間に、見落としそうに小さく刻まれた、薄い皺。 神殿の周囲に満ちる静寂にも負けぬような沈黙で、タナトスの問いかけに応えるヒュプノスに、タナトスは頭痛を覚えながら、再び大きくこれ見よがしに溜息をついた。 ――今後、弟神に恋人が出来る可能性は限りなく低そうだった。 『神代の日常―レムノス島の日常3―』(07年1月初出) |
薄靄と罌粟の花苑によって俗世から隔絶された黙 冥王の託を預かり、双子の同胞 その足が、神殿の入り口へと続く階段にかかったところで、一瞬、止まった。 大理石の床の上、片膝ついて頭を垂れる、冥衣をまとったものの姿を、タナトスの銀の双眸が捉えたからだ。 「おいでなさいませ。タナトス様」 静けさをまとった声音が、死の神の訪問を迎える。 眠りの神と同じ金の髪と、彼とは異なる濃い色調の双眸を持った、そのものを視野に認め、タナトスは呟くようにその名を口にした。 「夢神オネイロスか」 名を声に乗せれば。頷きの代わりに目を伏せることでそれに応える。 「お前がいるということは、今、この神殿の中で目覚めているものはおらんということか」 舌打ち交じりに、そう呟きながら、階段を上る。 は、と、深く頭を下げて、諾の言葉を返してきた。 「ヒュプノス様は只今お休みになられており、夢の神々 その応えを聞きながら、タナトスは、軽く眉尻を上げた。 その数千以上ともいわれる、夢の神々 彼らは、それぞれ、独立した人格と異なる個性とを持ち合わせているが、一つの魂を分かち生まれた、兄弟であり同胞 存在の核たるものこそ、白金の髪と虹色石 「ヒュプノスめ……。寝こけてばかりいるのではないわ」 大きく舌打ちをしながら、勝手知ったるなんとやら、とばかりに、神殿の内へ足早に歩を進めた。 少し遅れて、死の神にオネイロスが続く。冥衣を纏いながらも足音ばかりか物音一つたてることはない。 そもそも、この、眠りの神の神殿には“音”がない。 蝶番の音を立てぬよう、扉を設えず。 鳥は囀らず、獣は吼えず、虫すら鳴かない。 そして。 扉の代わりにかけられた薄絹の幕を払いのけ、タナトスは、ヒュプノスの寝間へと踏み込んだ。 まず、タナトスの知覚に触れたのは、寝間に満ちる夢の神の小宇宙。 寝間の中心に置かれた黒壇の寝台を中心に靄のように凝った小宇宙は、所々に濃淡を描いており、その濃淡は、あるものは人型を描き、また別のものは、獣を、あるいは、花々を形作っては、霞が崩れるように輪郭を失う、を繰り返している。 だが。斯様な靄に包まれた寝間の内で、それでも姿形を失わぬものもあった。 寝間の入り口に跪き、タナトスを見上げるのは、幻夢イケロス。 寝台の傍らに片膝をつき控えるは、造形者モルペウス。 そして、罌粟の花束を抱えて微笑む、仮称者パンタソス。 彼らが、守るように囲む寝台の上に身を横たえているのは、この神殿の主である、眠りの神と。 ヒュプノスの枕元で、身体を丸めて眠る、夢の神々の核たるもの。 その彼が。 ぴくり、と身じろいだ瞬間。 まるで、砂が波に浚われ形を失うかのように。 幻が、風にかき消されるが如く。 靄のように溢れていた小宇宙も、夢の四神も、文字通り、霧散した。 たった今、存在したすべてを“夢”に返し、虹色石 「……タナトス兄上?」 瞬きながら、兄にして伯父たる死の神の名を口にしたモルペウスの姿を見下ろしながら。 タナトスは、この神殿を訪れた時には頻発させる、苛立たしげな語調で口を開いた。 「ヒュプノスめ。相変わらず、寝こけおって……」 常と変わらぬ怒声が、黙 『神代の日常―レムノス島の日常5―』(12年4月初出) |
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