×月×日 物理的な器を持つ生き物には、遺伝というものがありますが。 物質として生み出された存在ではない神族にも遺伝というものは存在するのでしょうか。 考えずにはいられません。 原因となったのは、夕餉の折のことです。 何気ない会話の中で、妹のロデがふと母上に訊ねたのです。 「お母様とお父様はどうやって結婚なさったの?」 それに対して母上は…… 「お父様が結婚してくれって頼み込んできたからよ」 と、にこやかに微笑んでお答えになられました。 それだけならまだよかったのです。 母上は更にこうおっしゃりました。 「そう……ナクソス島で姉妹達と輪舞を踊って遊んでいた時のことだったわ。そこへ土煙を上げながら、馬に乗ったポセイドンが現れて――『そこの美しいお嬢さん、私の妻になってくれ!』と言いながら、横抱きに掻っ攫おうとしてきたの」 とんでもないことをさらりとおっしゃる母上の隣で、父上は目を閉じ懐かしげな表情で腕を組み、うんうんと頷いておいででした。 「あれこそ、まさに運命の出会いであった。一目で心も魂も奪われたものだ」 ……どこぞのどなたかを髣髴とさせるお話ですね、母上。父上。 「……それで。母上はどうなさったのですか?」 僕同様、頭痛を覚えていたらしいペンテシキュメ姉上が、白い目で父上をご覧になりつつ、そうお尋ねになると、母上は重々しく頷き、こうお答えになられました。 「勿論、顎と鳩尾に拳を見舞って、怯んだ隙に逃げ出したわ」 ぐっと拳を握り、雄々しく母上は――その時のことを思い出していらっしゃったのでしょう。 おそらくは、完璧に急所に入ったであろう、自らの拳の成果を思い返し、晴れ晴れとした表情を浮かべていらっしゃいました。 ……どうして、海の女神は大別すると逞しい方が多いんだろう……。 「お逃げになられたのに、お母様はお父様と結婚なさったの?」 不思議そうに目を丸くしたロデに、母上は過去を振り返るように遠くへ視線を投げかけながら応えられました。 「その後ね、お祖母様やお祖父様のところに姿を隠したの。そこへ海豚が一匹現れて切々と、悪い方じゃないから、このひととの結婚を考えてくれ、と訴えるものだから――」 ……絆された、とおっしゃるのですか、母上? 「その功を称えて、その海豚を天にあげ星としたのだ」 …………。泣いていいですか、父上? 父上といい、伯父上といい、神盾の王といい、攫い癖が神血 絶対、僕は、恋情に流されない男になろう。鋼より固い自制心を鍛えよう。 同じ轍は踏むものか…………。 『神代の日常〜トリトン日記3〜』(06年1月初出) |
×月○日 今日、テテュスひいお祖母様が母上を訪ねていらっしゃいました。 ひいお祖母様というのは、母上の母方から数えた場合です。 父方で数えると、僕にとっては大おば様になります。 ネレウスお祖父様の異父姉でもありますが、お祖父様の従姉という数え方もありです。 だって、ネレウスお祖父様の父上・ポントス殿と、オケアノスひい祖父様の父上・ウラノス殿はご兄弟なのですから。 でも、“大おば様”だと、エレクトラ大伯母様やエウリュノメ大叔母様達とごっちゃになってややこしいので、僕にとってはひいお祖母様です。 それはさておき。 どうやら、ひいお祖母様は、オケアノスひいお祖父様と夫婦喧嘩をなさったようです。 でも、いつぞやの父上と母上や、いつものヘラ伯母上と神盾 ひいお祖母様が母上に愚痴られるには、 「あの方はどうしてわたくしを頼って下さらないのかしら? たまには愚痴をおっしゃったり、寄りかかってきて下さってもよろしいのに、いつもいつも、ご自分の中に溜め込んでばかり。どうしていつもあの方はああなのかしら」 とのこと。 いわゆる、“犬も食わない”というやつです。 でも、ひいお祖母様。 兄として、やっぱり、妹には甘えにくいと思います。 男の意地というものです。 一通り、ひいお祖母様が母上に愚痴り終わった頃、ひいお祖父様がお迎えにいらっしゃいました。 そして、ひいお祖母様は、ひいお祖父様と腕を組んでお帰りになりました。 ――ひいお祖父様。ひいお祖母様。 流石に、大叔父様や大叔母様はもう増えませんよね? 『神代の日常〜トリトン日記4〜』(06年4月初出) |
△月×日 今日は、母上のお使いでオケアノスひいお祖父様とテテュスひいお祖母様の所へ行きました。 丁度そこに、オリュンポスからヘラ伯母上もいらっしゃられたのです。 僕が生まれる以前の話なので詳しくは存じませんが、十年ほどの間、伯母上はひいお祖母様とひいお祖父様のお手元にいらっしゃったことがあるそうです。 そういった事情もあって、ひいお祖母様方は伯母上のことを娘も同然に可愛がっておられ、また、伯母上もひいお祖母様方のことを伯父叔母以上にお慕いしていらっしゃるご様子なのです。 なので、伯母上がひいお祖母様方をお訪ねになることは珍しいことではないのですが……この日の伯母上のご様子はあまり芳しいものではありませんでした。 なんというか――ひどく口惜しそうな、それでいて打ちひしがれているような、なんともいえない風情だったのです。 例の如く例のように神盾 伯母上がひいお祖母様に訴えられたところによると、 神盾 狩猟女神といえば、ゼウスの娘御同様、処女神の誓いをたてており、また、常々ご自身の侍女達にも純潔を貫くことを求めていると聞き及んでいます。 神盾 規律を乱した罰として、カリストの身を熊に変え追放したのだという話でした。 その時、その娘は既に身籠っており、月満ちて男児を産んだらしいのですが、人間ならざる身となった母親は我が子を育てられず、赤子を人里近いところに残し、森の奥に身を潜めたようだとのこと。 その子は運よくリュカオン王の元に引き取られ、アルカスと名付けられてすくすくと育ったのだそうです。 どうも聞いたことのある名だと思っていたのですが、少し以前に、リュカオン王の五十人の息子達が甥を殺しその臓腑を混ぜた供物を神盾 その後、ハーデス伯父上の協力を得て神盾 閑話休題。 そのアルカスが、つい先頃、森に狩りに出かけた折に母熊と遭遇し、息子は母と気付かず、矢を射かけようとしたのだそうです。 その様を見かけた神盾 で、これが伯母上の癇に触ったわけです。 なんといっても、伯母上は一夫一妻の結婚の守護神です。 だというのに、不義の相手と私生児とを星空に据え、伯母上の司る婚姻の誓約が踏み躙られた――伯母上の職掌が蔑ろにされた証を公衆に知らしめるとは何たることかと、憤っていらっしゃる。 ご自身の存在意義を軽んじられ、口惜しく、また、羞恥に耐えないと、そういうことです。 「ゼウスがさような振る舞いを為すのならば、こちらもそれ相当に対さねばなりませんね」 さように訴えられた伯母上の肩に手を添えながら、ひいお祖母様は静かにそうおっしゃいました。 「分かりました、ヘラ。神の職掌を侮蔑するような行いには如何なる報いが返るか、このわたくしが広く知らしめてあげましょう」 そして、ゆったりとひとつ頷かれ――厳かにこうおっしゃられたのです。 「ゼウスが己の不義の相手を天に据え置くのならば、その娘も私子も二度と地にも海にも下りねばよろしい。我が名にかけ、他の星々には許された、天より海に下りて休む権利をその母子には与えません」 「テテュス――。責はその娘にも産まれた子にもないのではないかな。責なくしてそれほど厳しく咎めだてるのは如何だろう?」 思いのほか厳しいひいお祖母様のお言葉に、ひいお祖父様がそう異論を唱えますと、ひいお祖母様は静かに首を横に振り、こう反論なされました。 「罰とは、罪を悔い改めさせるばかりでなく、罪を犯した末路を知らしめ、同じ罪を犯す者を断絶するものだと、わたくしは思いますわ。ならば、此度の始末はあえて重く罰することで、婚姻の誓約を軽んずることが如何なる重罪か、広く知らしめ、二度と同じことが起こらぬよう――その罪の牙からは全霊をかけて逃げねばならぬ、とありとあらゆる者の心中に刻み込まねばならないと存じますわ。違うのかしら、あなた?」 滔々としたひいお祖母様の主張に、多少気負い負けなさりながらも、ひいお祖父様は宥めるお言葉を重ねられました。 ひいお祖父様は基本的に争いごとがお嫌いですから、厳しい咎めも好まれないのでしょう。 「けれどね、テテュス。不運な仔細となった者を更に追い詰めるようなことはどうだろう……」 「まあ。では、あなたはヘラよりも、その娘を庇いだてなさるとおっしゃるの? この娘がこのような仕打ちを受けたというのに、あなたはヘラを哀れと思われないの?」 「いや……そういうわけではないのだけれど……」 「ヘラが――わたくし達の娘も同然のこの姪が、あなたは可愛くないの? この娘が受けた侮辱をあなたは許せると、そうおっしゃるのね」 「……そんなことはないけれど――」 「でしたら、何故、その様にヘラの名誉を守ることに同意して下さらないの? 酷いわ」 「――――――――――――――そうだね。君の思うとおりにするといいよ」 ! 投げた! これ以上の討論が嫌になったでしょう、ひいお祖父様!! もしかして、争いごとがお嫌いというよりは、押しに弱いだけなんですか、ひいお祖父様……。 『神代の日常〜トリトン日記5〜』(06年5月初出) |
△月×日 今日もまた、海は荒れています。 原因ですか? 前の時と同じです。父上と母上の夫婦喧嘩です。 理由も似たり寄ったりです。 父上の浮気です。 正確には、浮気未遂です。 忌憚なく言ってしまえば、父上がテティス叔母様に色目を使われたので、母上が大いにお怒りになられたのです。 まあ、当然といえば当然なのですが。 テティス叔母様は、母上の姉妹です。 確かに、テティス叔母様もとても美人で優しいです。 ヘパイストス従兄 父上ばかりでなく、神盾 でも、だからといって、世の中にはやっていいことと悪いことがあるでしょう。 「私の妹を口説こうだなんて、何を考えていらっしゃるの!?」 と、母上がお怒りになられるのは尤もです。 怒り心頭に達した母上に、父上は散々なじられていらっしゃいました。 けれど、正論とはいえ(正論だからこそ?)、なじられ続ければ、理が通っていなくとも怒りを感じる心理もあるでしょう。 今日の父上がまさにそうでした。 母上の責めるお言葉に、逆に怒号をあげられたのです。 ですが。 「お黙りなさい! もう、いいわ! あなたなんて、出て行って!!」 と、母上に言い返され――。 父上は飛び出して行かれました。……半泣きで。 父上。 明日には、オリュンポスからお帰りになられるでしょうか? 『神代の日常〜トリトン日記13〜』(10年1月初出) |
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