――西二条邸。 その庭は、高倉の、趣味人として名高い内大臣の屋敷と並び称されるほど見事なものと知られているのだが、その屋敷の主が、ただ今の関白、師成卿と聞けば、それも納得するというもの。 評判高い、西の対の屋の、壮厳さと優美さを兼ね備えた桜の盛りは既に過ぎたが、春の花は桜ばかりではなく――。 「殿、こちらにおいででしたか」 二条邸、西の対の奥には矢場がしつらえてある。 そこにいる筈の主人の姿を求め、矢場へ向かっていた男の足は、矢場ではなく、北の対に近い辺りで止まった。当の主の姿をそこで目に留めたからだ。主の側へと歩み寄ると、男は膝を折りひっそりと声をかけた。 呼びかけられ、二条の主は中空に漂わせていた視線を男に向ける。 「光清か」 長年――それこそ生まれた時から――仕えてきた乳兄弟であり、今は摂家の家政をまかされている男の姿を視界に認め、二条の主――師成はその柔和な顔立ちによく映える優美な微笑を浮かべた。 既に五十路の半ばも越えてはいるが、黒々とした髪は白くなる気配も見せず、老境にある男性とは到底思えぬその容貌は、老いとは衰えるものではない、と世人に知らしめるには充分なものだった。年を重ねることで容色に深みを加える場合もある、という見本ともいえよう。――勿論、若い頃から他を圧する美貌の持ち主ではあったが。 薄紫の狩衣を品良く着こなす典雅な容姿を持つ、五尺三寸あるかないかの小柄な主が、宮中の武官はおろか、武士相手にも後れを取らぬ弓の名手であり、女人のごとく細腕に並外れた膂力を秘めていることを知る者は少ない。 昔から、衣冠束帯よりも唐衣裳を着せた方が似合うであろう、と周囲に思わせるほど優雅な容色を誇る人であるから、到底、武芸を好むようには見えぬのだ。 だが実際は、この矢場を童の頃から愛用していたのは、弟である一の大納言 「ごらん。今年も咲き始めた」 笑みながらそう言うと、師成は乳兄弟に顎先で、頭上のそれを指し示した。 促され、目線を向ければ、北の対の屋の広庇から見えるようにしつらえられた藤棚の緑の葉をかきわけるように、薄紫の花と白い花とがちらほらと姿を現しはじめていた。 「然様でございますな……。桜も終わり、ようやく殿のお好みの藤の時期となりましたか」 この藤棚は、もう何十年も前に作られたものだ。 師成の一人娘である先帝の正妃――藤壺中宮 その藤壺中宮は、今は皇后と呼ばれ――国母となられたわけではないので皇太后と呼び参らせるわけにもいかず、かといって出家あそばしたわけでもないので女院と称するのも違う、ということで、今上の正妃である弘徽殿中宮と区別して、先帝の正妃であるこちらは藤壺皇后と申し上げる――、先帝――弟宮である今上に譲位なされた院とともに、烏丸の院の御所に住まわれている。 「そう……桜は俊通の、藤は私の好ましい花。そうそう、亡き姉上は梅がお好きでいらした」 楽しげに、喉を鳴らして笑みをこぼしながら、微笑のまま、師成は再び男に視線を向けた。そして、穏やかな笑みのまま、こう続けた。 「藤には、親しみが……近しい感じがするのだよ」 「近しい、でございますか?」 軽く首を傾げて相槌を打てば、主は楽しげに笑いながら、そう、と頷いた。 「私――、というよりは私達、かな? 他者に絡み付いて花を咲かせ、己の華やかさで支えを覆い尽くすところが、よく似ているとは思わぬか、光清?」 柔和な笑顔のまま、さらりとそんなことを言ってみせる。 無論、男には主の揶揄の意味するところが良く解る。藤の花と、己の氏とをかけているのだ。つまり、帝を取り囲む貴族達の有様を花になぞらえてみたわけだ。 「……殿、そのようなことは自ら仰るものではありませぬ」 半ば呆れて――溜め息混じりにそういさめれば、変わらぬ楽しげな声音が返ってきた。 「己以外が言えば、ただの中傷だよ? ――それとも批判かな?」 くすくすと、それはそれは楽しげにそういうことが言えるこの主の内面は、どういうつくりになっているのか、乳兄弟である男でも、時折判断に窮する。――まあ、この複雑怪奇な御仁だからこそ、政敵を手玉に取れるのだろうが。 いや――今は互角に対せる御方がいるか……。 ふいに、朝堂の大部分の者の悩みの種でいらっしゃる、目前の主とはまったく異なる意味でその内面がうかがい知れない人物を連想し、男は一瞬遠い眼をしそうになった。その方こそ、ただいま至高の御位にいらっしゃる方である――。 「――殿、あやうく用向きを忘れるところでございました」 頭をひとつ振り、その連想を振り払い、男は主を探していた理由を口にする。 「つい先程、烏丸殿より使いの者が参りまして」 ほう? 軽く片眉をあげ、視線だけで先を促す主に、男はゆっくりと使者の言葉を復唱した。 「――皇后様、御懐妊とのこと」 ……。 男の言に、怜悧沈着な政治家である関白師成の表情と動きとが、瞬間確かに止まった。 実の所、これは誰が聞いたとしても類似した反応を返すだろう。男も、最初に聞いた時は即座に使者に訊き返したくらいだ。 まず、院はことごとく子宝に恵まれなかった方でいらっしゃる。かつて懐妊した妃がたもいたが、死産であったり夭折されたり、いずれも健やかに育つことはなかった。ここ数年は懐妊の報せもなく、それゆえに、昨年、院が病に倒れられ、譲位を決意なされた折、後継に弟宮を指名されたのだが。 皇后もまた、入内して三十年近くになるが――もっとも子を授かれるような年齢ではない頃に入内しているので、事実上、『妃』であったのは二十年ほどになるだろうが――結局、一度として懐妊の兆しはなかった。 更に言えば、皇后は既に不惑に近く、院はそれより十歳の年長である。 おそらく、当の院や皇后も薬師からそれを聞かされた時はさぞ困惑したことであろう……。 しかし、そこは、長く朝堂において一の人として辣腕をふるっていた御仁である。 反応がなかったのは、二、三度瞬きをする間だけで、その後、顔中に、最上の笑みを広がらせ、こう言った。 「それは、目出度い」 その声音には喜色も顕に、満面の笑みをたたえて、師成はそう言ってのけた。……いや、嬉しいのは紛れもない本心であろう、師成が我が姫をこの上なく慈しんでいるのは事実なのだから。 だが、普通の父親なら、ここでまず「目出度い」とは即座に言えまい。大概の貴族ならば、最初に思うことは「今更」だろう。既に今上の御世となり、今上には元服を済ませたばかりの親王――ただ今の春宮と、それより四歳年少の若宮とがおいでになるのだから。 しかし、この主も外戚でもない帝の御世で関白として政を動かしてきた人である。その辺りの雑多な公達とは違った。 「――確かに吉報でございますが、なにぶん、皇后様は初産、それも失礼ながらお年も召していらっしゃいますので」 「そう、そこが心配だ。光清。都中の聖 にこやかな笑みを浮かべて、そう口にする主に、男は承諾を込めて深々と頭を下げる。 その頭上に、師成の笑みまじりの実に楽しげな声音が振ってきた。 「……しかし、光清。人生というものは思いがけないことが起こるものだね。中々に……退屈しない」 くすくすと、喉の奥で転がす笑い声に、男も頷き、その言葉に同調する。 「確かに。思いもがけない時に予想もせぬことが起こるものでございます」 「さて、皇子 「殿。お上 初めての内孫に、怜悧な関白もいくらか浮かれ気味に呟きをもらす。生まれてくる御子が似るのは、我が姫か、早世した長男か、と主観が大きく占める希望的予測に、男が冷静に別の可能性を提示すれば、主の口からは恐ろしいほどの速さで即答が返ってきた。 「顔は似ても構わぬが、中身は御免こうむるよ」 「……殿。そういったことは口に出さぬほうが宜しいかと」 「光清。あの性格は一人でも充分過ぎるほどだから」 一応の諫言に返されたのは、若干、こもり過ぎなほどに力のこもった断言だった。 失踪癖のある今上――脱走癖でもよい――に、上達部 「まあ……元より春宮がご成長あそばすまでの帝、との約定でお上は主上にご譲位なさったのだから――残りの人生の数年程度ならば、と思えば我慢も出来よう」 ほう、と吐息まじりに呟いた主人の言葉に、男は――まあ、馴れてはいるのだが――流石に呆れた口調で訊き返す。 「……殿、あと何年生きるおつもりですか」 世間の常識では、そろそろ寿命をまっとうしてもおかしくない年齢に達している関白殿はにこやかに微笑みながら、自信に満ち溢れた返答を口にした。 「そうだねえ、七十、八十までは確実に」 「……何人前、生きるおつもりです?」 あからさまに溜め息まじりに言葉を返せば、これまた、異様な自信に溢れた発言が返ってきた。 「大丈夫だよ、私はそう簡単に死ぬ性質ではないから」 「――確かに」 生まれた時から仕えてきた乳兄弟は、主のその言葉に思わず深く頷くのだった――。 了
04年卯月中旬 |
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