――三条邸と世人が呼ばらうその邸では。 その北の対の屋は、今、花の盛りを迎えていた――。 うららかな、春の日の、ある午さがり。 北の対へと続く渡殿に、三条邸のただ今の主である、四位の大輔 三条、北の対は、その周囲を今を盛りと咲き誇る桜の木々に囲まれており、幼き日より見慣れた禎衡ですら、思わず足を止め見惚れかねぬ情景を描き出していた。 その対の屋の広庇 「父上。お待たせしてしまいましたか?」 禎衡が三条邸に正室を迎え入れた時にこの邸宅を譲り渡し、今は別邸に住まう一の大納言俊通は、息子の声に軽く振り返り、微かな笑みを浮かべて小さくかぶりを振った。 宮中では『気難しい』と思われがちな父親だが、実の所はたいそう情に厚いことを、彼を知る人ならばよく理解していた。 父の隣に禎衡が腰を下ろすと、後ろから付き従っていた女房がしずしずと酒盃の用意をその傍らに置き、心得たようにそのまま下がっていった。 その杯を手に取り、そっと父親に差し出す。 「父上。どうぞ」 息子が笑みとともに差し出した杯を、父親は微笑して受け取った。 その杯に、銚子 ほんの少しその酒で唇を湿らせると、俊通はその杯を自らの傍らに置き、静かに息子に片手を差し出した。 「――禎衡」 その仕草に、禎衡も心得たように視線だけで頷き、手に持つ銚子を父親に渡すと、用意されてあったもう一つの杯を取り上げた。 トクトクと、今度は父の手から息子へと、酒が注がれる。 「いただきます」 注ぎ終え、銚子を置いた父親に、小さく笑みをこぼしながら、禎衡も少し酒を口に含み、そしてその杯を同じく傍らに置く。 「――今年も、見事に咲いたな」 「――はい、この花だけは変わらずに」 そうして、どちらともなく、視線を咲き誇る桜へと移した。 植樹の際の配置には随分気を回したという、その花々は、その労の甲斐あって、幾重にも重ねた枝は薄紅の波となって天に浮かんでいるかのよう。 それでいて、桜の静けさは失わなず、どこか楚々とした風情も見せている。 ――最初に、桜を慈しんでいたのは父親だという。 生まれ育った西二条邸の、西の対の屋の桜が何よりも好きなのだと、語った父に、今は亡き母が、見てみたい、と呟いたのだと。 ――そうして、この北の対の屋には桜が植えられたのだと、古参の女房達は語った。 まだ、元服したばかりだった父と、ほんの少しだけ年上だった母との、遠い日の他愛もない話の形見なのだという。 然程身体の丈夫ではなかった母は、息子の袴着を見ることなく身罷り、禎衡自身には母親の思い出はない。 だが、周囲の女房らや――姉からも、亡き母のことは随分聞かされてたものだ。 ――父だけでなく、母は勿論のこと、姉もまた、この北の対の桜を愛しんでいた。 その姉も、今は亡い。 母に似て病弱だった姉は、裳着をすませて間もなく病の床につき、そのまま儚くなってしまった――好きだと語った、この花の咲く季節に。 「――一枝、常寧殿 ぽつり、と禎衡が呟けば。 「――それも、良いな」 小さく、俊通も頷いた。 常寧殿は、先年、春宮妃として宮中にあがった妹が局を賜った殿舎だ。 今の禎衡よりもはるかに若い時分に北の方に先立たれた俊通だったが、その後長く、新しい妻を迎えるでもなく、側女をおくこともなかった。 そんな弟を案じた姉君――五条の帝の妃であった弘徽殿女御 妹というよりは娘に近い――何せ、禎衡とは十八も年が違う――異母妹は、この父親の娘にしては少々……いや、かなり闊達ではあるが……それが父と兄の悩みの種でもあるのだが……まあ、可愛くないということはない。 むしろ、亡き姉の分もよく後見してやりたい、と禎衡は思っていた。 「――では、どの枝にいたしましょう?」 「そうだな――」 ――毎年、こうやって、他愛も無い話を父と息子は繰り返す。 それもいつか、孫子に語る思い出になるだろうことを。 知るのはおそらく、桜だけであろう――――。 了
04年卯月上旬 |
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