『春も間近の晴れた日に』
 しゅるり、と下襲のきょを引く衣擦れの音と共に一の大納言が清涼殿、その孫庇を歩いていると、不意に目前の御簾がはね上がり、それと同時に明朗な声音が響く。
「一の大納言も我が子とは共住みしたいと思わないかい?」
 唐突な発言と共に姿を現しあそばした至高の御位におわす御方を、一の大納言はしばし静止と沈黙をもって眺め見――、無表情のまま目を座らせて今上の直問へ斯様応じた。
「…………まず、その問いに至りました経緯をご説明いただいてよろしゅうございますか」

 然様な次第で御簾内に連れ込……招き入れられ、一の大納言はそこに座す人物を視野に収め目を座らせた無表情のまま眉間に皺を寄せた。
「おやおや、主上に捕まってしまったのかい、弟よ」
 檜扇でそっと口元を隠しながら優美に微笑む、実兄である関白の様相に一の大納言はそっと嘆息を吐き出した。帝と関白、双方の様子から政の話ではないと確信し、そしておそらく面倒ごとであろうと推測したからだ。
 静やかな所作で一の大納言は関白の隣に腰を下ろすと、そっと今上へとこうべを垂れる。
「改めてお尋ね申し上げます。主上におかれましては臣めに如何なる御用向きがおありでございましょうか」
「相変わらず、一の大納言は固いね。そこが大納言の大納言らしいところだけど」
 ぱさり、と袖を払いながら臣下二人に相対してしとねに腰を下ろし吐息交じりに今上は呟いた。
「大納言も知っての通り、過日、目出度く兄上に姫宮がお生まれになったわけだけど」
 今上の前置きに、一の大納言は更に深く頭を下げた。
「院の姫宮様の健やかなる御様相は臣も聞き及んでございます。兄院様の御慶事臣ら一同心よりお喜び申し上げます」
「うん、ありがとう、わたしも兄上のお目出度い出来事を嬉しく思っているのだけど」
 一の大納言の言葉に今上はこくり、と一つ頷いた。
 今上の同母兄でおわす院は子宝に恵まれぬ御方であられた。身籠られた妃方は幾人か居られたが、お流れになられたり胎の内で息を引き取られておいでであったり赤子の内に御夭折あそばされたり、とただの一人も健やかにお育ちになられなかった。その為、先年急な御病でお倒れになられた院は同母の弟宮に御位をお譲りあそばされた。御譲位に際して院は、正妃である藤壺中宮――今上の正妃である弘徽殿中宮と区別してただ今の御代においては藤壺皇后と改めて呼ばれておられる――を伴われ院の御所へとお移りあそばされた。
 藤壺皇后は内裏においでの間、ただの一度も懐妊の兆しはなかったのだが、院の御所へと移られて一年と経たぬ内に懐妊されたのである。今上には若宮が二人おいでであられる為、宮中には多少のざわめきがありはしたが、十月十日の後、皇后は無事健やかな姫宮をお産みになられた。
 今上が、兄院の姫宮の誕生を我がことのようにお喜びであられたことは記憶に新しい。廷臣らも帝位の継承に影響を与えぬ姫宮であられた為に生誕以前のざわめきはそのまま立ち消え、宮中も落ち着きを取り戻している。姫宮の外祖父である皇后の実父はといえば、もとより外戚でもない帝の御代で政の頂点に立っていた御仁である。常と変わらぬ様相で目出度きことと微笑んでいた。
「その姫宮の顔を、兄上がご覧になったのは生まれてすぐに二条の邸にお祝いに訪れた時っきりなのだよ! で、関白は何時いつになったら皇后と姫宮を院の御所に戻してくれるのかなって訊いたら、関白ってばこう言うのだよ?」
 今上の言葉を受け、それまで柔和に微笑みながら黙していた関白はにこやかに笑んだまま優美に口を開いた。
「姫宮様におかれましては未だお生まれあそばして間もなく、院の御所にて粗相もございましょう。また、皇后様も失礼ながら決してお若いとは言えぬ御歳での初産にございますれば、今しばしの御静養も必要でございましょう。どうぞ院の御所への参内はご猶予を下さいませ」
 滔々と謡うようによどみなくそう言うと、藤壺皇后の実父にして姫宮の外祖父である関白はそれは優雅に今上へと深々とこうべを下げた。それを眺めながら今上はジト目でぽそり、と呟く。
「……って、この数ヶ月、ずっとそう言っているよね、関白」
「然様でございましたか?」
 拗ねたような口調で呟く今上に、関白は一礼した上体を起こしふわりと微笑みながら小首を傾げる。その笑みを横目に今上は一つ吐息をこぼして、つい、とわずかに関白へと身を乗り出した。
「そういう空とぼけはよくないよ。関白も人の親なら分かるだろう、今が一番いい時期じゃないか。日に日に成長していく姿を見守る幸せは他に代えがたいって、知っているよね。我が子の成長を見損ねる無念、それを取り返せない日々の辛さ、それから兄上を解放して差し上げようじゃないか?」
 徐々に熱を帯びていく今上の力説に、一の大納言は無表情のまま内心首を傾げた。
 今上の正妃である弘徽殿中宮の父君は生前宮中に出仕していた時分は権大納言の官職を賜っていた御仁で、彼は今上の生母である女院――今上や院の父帝がご存命であられた頃は宣耀殿女御と呼ばれておられた方である――の従兄弟である。今上はまだ二宮と呼ばれていた親王時代、都の外に隠遁していたさきの権大納言と共に暮らしていたその娘を妻問うようになられいつしか共に暮らされるようになり、そして若宮を二人もうけられた。側女のひとりもおかれたこともなく今上の妃は今も弘徽殿中宮ただおひとりであられる。
 ゆえに、今上には外腹の御子はただのひとりもおいでではない筈なのだが、何故こうも我がことのように熱弁あそばすのか。
「勅令なれば、わたくしも臣たる身、従うよりございますまい」
「そういう言い方、ズルいよ、良くないね」
 そっと目を伏せ応える関白に、溜息交じりに今上も返す。
「わたしと関白とで今更そういう建前を言う必要は無いと思うのだけど?」
 こてり、と小首を傾いで今上がそう言えば、関白は伏せた目を上げ――百花繚乱とはこのこととばかりに笑みほころんで口を開いた。
「主上が然様仰せなれば、飾らず申し上げましょうか。他に代わりなどおらぬ唯一無二の一人娘が産んだ初孫が可愛くて致し方なく一目とて目を離さず手中の珠と一時ひとときも手放さず慈しみたいと思いこの愛おしさを言い表す言葉すら浮かばぬほどに情が溢れて止まぬ祖父の心中どうぞお察し下さいませ」
 今上の促しを受け息継ぎなく一息に言い切った関白の発言に、一の大納言は危うく顔面から床に倒れ伏しそうになるのをなんとか堪える。時々自重を地平に投げ捨てるこの兄が理解出来ないと、生まれて五十と数年、何度思ったことか。
「この世に唯ひとりきりの愛娘が初めて産んだ孫、これが如何に格別愛おしくて堪らぬものか、こればかりは主上とて実感は出来ますまい」
「実感はまだ出来ないけど想像は出来るとも!」
 首をうち降り呟く関白に、今上はやたら力を込めて声を張る。そんな二人のやり取りに一の大納言は思わず目が遠くなった。一体己は何の論争を聞かされているのか。
「それに、孫なら他にもいるでしょう、頭中将には姫も若君もいるじゃないか」
「他家の姫が産んだ外孫と我が姫が産んだ内孫とでは同一に並べることは出来かねます」
「そういうものなのかい、一の大納言」
 心外と言わんばかりに軽く目を見開いて告げた関白の言に、今上は一の大納言に視線を転じた。話に巻き込……話を振られ、一の大納言は痛む頭を堪えつつ、努めて平生の声音と口調を保って応じる。
「…………わたくしと兄関白とでは事情が異なりますれば。中将の北の方は左府が姫、当家の大輔の正室は右府が姫。右府は亡き我が妻の兄君でございます上に、当家とも多少の血縁もござります。省みて、左大臣家と当家は中将の他に縁組を結んではおりませぬゆえ――」
 頭痛に眉根を寄せそうになりながらそう説く一の大納言に、今上は腕を組んで――そして改めて口を開いた。
「では、関白が兄上の姫宮と頭中将の子らとで心情に違いがあることは受け止めるよ。でもね、まだ姫宮がいとけないと言うけれど、亡き弘徽殿女御は准后の宮がまだ襁褓むつきも取れぬ内に准后の宮を伴って宮中に戻っておられた覚えがあるのだけれど?」
「身内の恥を晒すようではございますが、亡き姉女御と亡き西の大臣おとどとは如何ともし難く破綻しきっておりました。世人の愁眉に目をつむり世の常識を蹴倒して二条の邸ではなく内裏にて准后の宮様をお育てになられたのもひとえに西の大臣が影響を受けぬ場所で宮様をお育て申し上げたいと願う一心でのこと。五条院様におかれましても外祖父である西の大臣の為人に些か難儀があることはご承知であられました故に姉女御の横紙破りも目をおつむり下さったまでのこと」
「……確かに西の大臣は気安い御仁ではなかったけれど、実の祖父だというのにどうしてそうも他人行儀なのかな」
 今上や院の父帝の妃であった、関白や一の大納言の姉にあたる亡き弘徽殿女御を引き合いに今上が問いかければ、非の打ちどころのない笑顔で関白は再度息継ぎなく言い切る。その言葉の端々ににじむ不穏の影に今上は微妙に苦い顔をした。今上の呟きに、一の大納言は血縁だからこそ発生した断絶というものもあるのだと、内心、言葉には出さずに応える。関白姉弟の祖父にあたる西の大臣は人の情理というものを一切解さぬ御仁であった為、彼の言葉の刃に切り裂かれた記憶は程度の大小こそあれ、皆ある程度は所持しているのだ。
 嘆息を噛み殺す一の大納言と必要以上ににこやかな関白を眺め見て、今上はひとつ溜息をついた。
「まあ、そこに至るまでに色々とあったのだろうけれど、結果的に亡き弘徽殿女御が准后の宮を宮中で育てられて、わたしや兄上も宮中に呼び寄せられていたおかげで、腹違いといえど兄妹らしい親密さを育めたわけだし、父帝とも睦まじい思い出があるわけだよ。やはり、姫宮も院の御所で父である兄上と母君と親子三人共住みなさるべきだと思うのだけど?」
 多少横道にそれかけた論点が最初の起点に戻される。
 先々帝の皇子おとこみこは今上と院のお二人だけだが、女院がまだ宣耀殿女御と呼ばれていた頃、彼女の父大臣おとどが早くに亡くなられ後見に不安があった為、彼らの父帝は若宮二人をあえて宮中に呼び寄せ後宮で育てさせられた。また、亡き弘徽殿女御が宣耀殿女御の控えめな為人に好感を抱いていたことも相まって、異腹ながら院と今上、准后の宮は同腹の兄妹のように仲が良い。
「されば主上はこの老体から生木を裂くように孫を取り上げられるとおっしゃいますのか」
 そっと愁眉をひそめ口元に袖をあて悲嘆の呟きを漏らす関白の様相は、絵巻物の一場面のように秀麗であった。
「関白は本当に自分の見目の使いどころを理解しているねえ」
 しみじみと今上が呟けば、関白は愁眉を解き双眸を笑み緩ませて小さく笑い声をもらした。今上の当極よりじきに二年。いつの間にやら遠慮のないやり取りをするようになったものだと、一の大納言はいまだ頭痛を訴えるこめかみにそっと手を添え洩れかけた吐息を噛み殺す。
「一の大納言も真似してみたらどうかな?」
「――人には向き不向きというものがございます」
 今上に水を向けられ、頭痛の範囲が広がるが一の大納言は語調が苦くなるのを堪えて叶う限り平生の口調で応じた。だが、その後に畳みかけるように続けられた言葉に、とうとう噛み殺しきれなかった溜息が口をついて出た。
「で、話が長くなってしまったけれど、一の大納言も兄上に姫宮や皇后と共住みさせてあげたいと思わないかい?」
 孫庇での発言へと帰結した、改めての今上の問いかけに、一の大納言はその顔から表情を消し去って一言こう言った。
「――御前をば辞させていただいてもよろしゅうございますか」
「面倒くさくならないで、一の大納言」
 それに対する返しは、今上の即答と、ひそめた関白の笑い声であった。
 ――院の御所が皇后と姫宮を迎え入れる日が近いか否かは、いまだ定かではない――。






二〇二一年長月中旬

<<<戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送