「――もしも、オレがあんたを裏切ったとしたら……どうする?」 それは、半ば独り言のように小さく呟かれたセリフだったが、それでもこの耳に届くには充分だった。 「裏切るってのは……どういう意味だ?」 言葉そのものを知覚することは容易だったが、その意味するところは理解出来るものではなかった。 知り合って未だ三ヶ月足らず――共有した時間こそ短いものの、決して浅い付き合いではない。それどころか、この相手のように、こちらのテリトリーに深く踏み込んできた存在はなかったし、自分自身、こんな風に己の領域に侵入を許したことなど未だ覚えがない。 だからか。 訊き返した己の声音は、自分自身意外に思うほど、怪訝な響きを宿していた。 相手が――彼が『裏切る』という可能性を考えていなかったのか? この、自分が? 彼は、聞き返され、ハッとしたようにこちらを振り返った。 そうして、微かな苦笑をにじませながら首を横に振った。 「――いや、何でもない。ただの独り言だ、忘れてくれ」 その後はもう、彼の様子は常と同じに戻っていたから、自分もそんなやり取りの事はとっくに忘れていた。 それを今更思い出したのは……。 ふう。 小さく息を吐き出しながら、半ば倒れこむようにソファに座り込み、目を閉じる。 超人オリンピック・ザ・レザレクションの戦いから一ヶ月弱。 試合が終われば、何もかも終わると思っていたが、それが大きな間違いだったと思い知らされた。 面倒なことだが、勝者には勝利の栄光と引き換えに、負うべき義務もあるのだ。 つい先程までつき合わされていた祝賀会もその一つだ。 超人オリンピックに出場する為には、自国の超人協会に所属していること――つまり正義超人として認知されていること――が条件であり、そして、組織に所属する者には好む好まざるに係わりなく、その団体の意向に従わねばならない義務が発生する訳だ。 超人オリンピック再開の、始まりを飾ったチャンピオン。 英国超人協会にとって(そして英国という国家にとって)それがどれほどの宣伝効果があることか、分からないほどガキでもない。 こちらにすれば過剰としか思えない、国内外へのアピールにも付き合わねばならないことぐらい理解している。 とはいえ、リングの上ならともかく、それ以外での自己顕示ははっきり云って面倒以外の何者でもない。 そのせいか、気持ちは現実から逃避するように己の内に向き合うことが多くなった。 正確には、試合の後、病院のベッドの上に寝ていた時からだ。 考えるのは、何時かの些細なやり取りのことだった。 彼が口にした『裏切り』の意味だ。 何をもって、『裏切り』というのか。 正体を隠していたことか? 姿を偽っていたことか? 他人を装っていたことか? 真実を明かさず、側にいたことか? ――そのすべてかもしれない。 あるいは、そのいずれでもないのかもしれない。 振り返ってみれば、彼が誰であるか、ということをもっと早く気付いて然るべきだったのだ。 彼が『彼』でなければ、分かるはずのない事を常に理解してくれていたのだから。 ――そう、あんたは解っていたんだ。 オレが真実反発していたものが何かを。 確かに、親父のやり方は嫌だった。 自由になりたかった。 だが。 なにより嫌だったのは……。 オレを『親父の息子』としてしか評価しない、雑多な観衆だったんだ。 『流石、彼の伝説超人の息子だ』 『彼の伝説超人の息子だ、出来て当然だろう』 『彼の伝説超人の息子なのだからこうあるべきだ』 冗談じゃない。 オレはオレだ、親父とは違う者だ。 オレ自身を見ろ。 オレ自身を見て評価を下せ、親父を基準にするな。 オレは親父の模造品でもなければ、付属品でもない! だから、オレは親父の生き方と真っ向から対立しようとした。 『親父の基準』が通用しない生き方をしようとした。 だが。 結局、オレは親父と正反対の生き方が出来なかった。 だったら、親父の業績を超えるしか、周囲にオレ自身を評価させる方法はなかった。 それも、あんたにはお見通しだったんだろう? なにせ、あんたはオレを生まれた時から知ってるんだからな。 あんたは全部、解っていたんだ。 でなきゃ、ハタから見れば首尾一貫していないだろうオレの言動のすべてを受け入れられないだろうよ。 何もかも解っていたから、あんたは口ではオレに同調して『王朝の復興』なんて云いながら、その裏で本当の目的を達成してみせたんだ。 オレ自身を、周囲に認めさせるという、本当の目的を。 そうだ。 認めよう。 オレは……自分の血を、誇りに思っている。 反発を口にしていても、オレは――己の血を、そしてあの父を……誇っているのだ。 だが、オレはそれを認めたくはなかった。 親父を誇りにしていることを認めることは、親父を基準としてオレを評価する世評を容認することだと思っていたからだ。 ……だからだろう? あんたが正体を隠してオレの前に現れたのは。 最初から、親父の弟子としてあんたがオレの所に来たとしたら、オレは絶対にあんたを受け入れなかっただろう。 あんたの後ろに親父の存在をかんぐり、疑っただろう。 それともう一つ。 オレが嫌っている大衆の評価も、あんたは意識したんじゃないのか? 親父の弟子であるあんたがオレのセコンドにつけば、誰だってそこに親父の影響を考えるだろう。 それじゃ、オレが脱そうとしている『親父の息子としての評価』から抜け出せはしない。 それだけじゃなく、オレのセコンドにつく為にあんたは故国を捨てている。 そのことで、オレがいらぬバッシングを受けることを警戒したんだろう。 知っている。 あんたは……そういう人だ。 それを――本当の事を語らず、姿を偽り他人を装いオレの側にいることを、あんたは『裏切り』だと思ったのか? ……オレは、そうは思っていない。 あんたの気遣いが――分からないほど、バカじゃない。 オレはあんたに裏切られてはいない――。 コンコン……。 不意に聞こえたノックの音に、ゆっくりと目を開ける。 「ミスタ、宜しいですか?」 ドア越しに投げかけられた英国超人協会のメンバーの呼びかけに、何だ、とだけ応じる。 「今後のスケジュールについての打ち合わせをしますので、ロビーまでおいでください」 「……ああ」 この先もまだ付き合わされる、終わりそうもない馬鹿騒ぎを思うと、気乗りはしないが、仕方がない。 大きく息を吐き出し、のろのろと立ち上がる。 そして、何気なく、視界の端にとまった窓ガラスの方に視線を向けた。 視界に入ってきたのは、ガラスに映る自分の姿と夜陰――彼を連想させる、漆黒の景色。 「……見てろよ」 その光景を眺めながら、無意識に、誰に云うともなく小さく独白していた。 反発するだけのガキには、戻りはしない。 オレは、オレにしか歩めない道を作ってやる。 あんたが、オレの為に払った代価が無駄ではなかったと云えるように――。 了
2003年卯月制作 |
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