挿話
 オリンピック・ザ・レザレクション。
 数十年ぶりに開催される超人達の競演、そして、その参加権をかけた各国予選の戦いは、常にない熱狂を大衆に与えていた。
 そして、今まさに、その内の一国、英国の国内予選の決勝戦が行われていた。



 ――決勝戦が行われていたその時刻、試合会場からははずれた、一般の観客は立ち入りを禁じられている区画を『彼』は歩いていた。
 試合時間だということもあり、本来ならば大勢いる筈のスタッフ達も、今はほとんどその姿を見ることは出来なかった。
 廊下を進み、ある一室の前で立ち止まる。
 コンコン……。
 わずかに控えめなノックに、数瞬遅れて扉が開く。
 ゆっくりと開いた戸の隙間から姿を見せたのは、落ち着いた様相の年配の婦人だった。
 既に若いとは呼べないが、それでもその品の良いたたずまいや上品な容貌から、若い頃の顔立ちが整っていたことは充分に想像がついた。
 婦人は、そっとドアを開き、彼が入れるだけの隙間をあけると、言葉なく中に入るよう、促す。
 それに、彼も黙って頷き、静かに部屋の中に足を進めた。
 その背後で、扉が音もなく閉じられた。
「……ごめんなさいね。突然に呼びつけたりして……」
「いいえ――」
 戸を閉め、部屋の奥へと歩を進めながら、婦人は申し訳なさそうに口を開いた。
 その婦人の言葉に、彼は短く否定の語を呟き、そっと首を横に振った。
「……お久しぶりね。元気そうで――少し、ほっとしたわ」
「――申し訳、ありません。すっかりご無沙汰していました。アリサ夫人」
「……いいのよ、そんなことは」
 長く連絡を取らなかった非礼をわびる言葉をつむぎ、軽く頭を下げた彼に、婦人は――アリサは、小さく首を打ち振って応える。
「――本当に、ごめんなさいね。こんな風に呼びつけたりしてしまって……。でも、こうでもしないと、あの子やロビンのいないところで話が出来ないと思ったの」
 言いながら、室内に置かれた椅子に座るよう、手振りと視線でうながす。
 それに、彼は少し頷き――アリサが腰掛けてから、自らも腰を下ろした。
「急に、呼んだりしたから、驚いたでしょう?」
 確かに、彼女からの誘いは思いもがけない形で差し向けられたものだった。

 選手控え室に、試合時間を告げにやってきたスタッフが『彼』宛てだとひっそりと渡された、差出人の書かれていない一枚のメッセージカード。
 そこには、決勝が始まった後、この場所に来て欲しいむねと、『彼』の法的な場以外では使われることのないもう一つの名が宛名として記されていた。
 その名を知っている人物は――限られた一握りの者しかいない。だからこそ、差出人が誰か、すぐに分かった。
 だからこそ、共にいた相棒には何も告げず、気付かれぬようにここに来たのだった。

「――少し。オレがここにいるとどうしてご存知だったのですか?」
 小さく頷き、そして、疑問を口にした。
 昔馴染みの仲間達は勿論、自身の師にすら、彼は己の今現在の所在を告げていない。――いや、告げるわけにはいかなかった。
 誰にも教えてはいないのに、何故知りえたのか、という彼の当然の疑問に、アリサはほんの少し笑みを浮かべて、種明かしをした。
「予選が始まる前に、超人協会の名簿を見たのよ。名簿に添付されていた国籍証明書の写しも……。その中に、あなたのもうひとつの名前があったわ。――それから、あの子のコーチをしてくれていることも」
 アリサの夫であるロビンマスクは、以前より英国超人協会の常任理事を務めている。
 今回、超人オリンピックが再開催されるにあたって、英国超人協会の役員全員に、全英国籍超人の最新の名簿が配布されたそうだ。そして、その中にアリサは『彼』の名を――昔と異なるその名を見つけたのだった。
「――覚えていらっしゃったとは、思いませんでした」
 それは、もう、二十年近くも過去の話だ。そんな昔にたった一度聞いた名を、まさか覚えているとは思わなかった。
 軽い驚きを込めて、わずかに目を見開いた彼に、アリサは微笑をこぼし、頷いた。
「ええ、勿論よ。忘れる筈がないでしょう?」
 優しい口調の中に、わずかに力を込めて断言する。
 それは、どれほど時間がたっても、忘れられることではないからだ。
 夫の弟子であり――そして、彼女の息子を誰よりも可愛がってくれていた、家族も同然の彼の名を、忘れるような非礼をする筈がない。
 だが。
 ゆっくりと、アリサの微笑が崩れる。そして、その柳眉がそっと寄せられた。
 眉根を寄せて、アリサは呟くように言葉をつむぎはじめた。
「……これを訊くのは、貴方に失礼じゃないかとは思うのだけど……。どうして、英国籍を取得しようと思ったの?」
 静かな、問いかけだった。
 その質問に彼の反応がないことに、アリサは一層眉間の皺をきつく刻む。
 彼の今現在の超人としての名を知って間もなく、彼が、彼女の息子の側にいることを知った。
 名を変え、姿まで変え、そして国籍まで変えて、息子の為に尽力してくれていることを知った。
 彼が、どれほど苦い記憶が残る祖国であっても、それを大切にしていることは、彼を古くから付き合っている者なら、皆知っている。
 あれほど大事にしていたものを、夫や息子の為に棄てさせてしまったのだとしたら……これ以上に申し訳ないことがあるだろうか。
「もし、その理由が――あの人に義理立てしてのことなら――私達は貴方に申し訳ないわ……」
「それは、違います。アリサ夫人」
 目を伏せ、俯いたアリサに、彼はわずかに慌てたように椅子から腰を浮かせ、若干強い語調で否定の言葉を吐き出した。
 その否定の、意外なほどの強さに、顔を上げたアリサがかすかに驚いたような表情を見せた。
 その表情に、彼は少しうろたえたように視線を床に落とし――言葉に迷うように途切れがちに、次の語を続けた。
「オレは……ケビンに対して申し訳なく思っているんです……。――なんと言えばいいのか……。オレは、彼に嘘をついてしまったんです」
「嘘?」
「ええ。嘘をついたというか、約束を破ってしまったというか……。上手く説明出来ないのですが……。ロビンに対してどう、というわけではないんです。ただ、オレ自身がケビンに、なさなければならないことがあるんです」
 コーチをしているのは、誰の為でもなく、自分自身の負い目のためなのだと、彼は不器用に弁明する。
 そんな彼の様子に、アリサは困ったような微笑みを浮かべ、そして首を打ち振った。
「――貴方は――。貴方は、いつもそうね。――優しすぎるわ。優しすぎて、私達は貴方の好意に甘えてばかりね……」
「それは、違います。アリサ夫人。優しいのは……貴女がたのほうです」
 アリサの呟きを、彼は即座に否定する。
「オレは……ロビンのおかげで、仲間達と出会うことが出来ました。貴女と知り合えて、家庭の温もりを教えてもらいました。――ケビンが生まれてくれたおかげで、生命の尊さを、実感として知りました。オレは、貴女がたから多くのものを貰っています。それを返したい。ただ、それだけです」
 真摯にそう告げる彼に、アリサの困惑の入り混じった微笑は泣き笑いのような表情に変わる。
「――いやだわ……。もう、充分すぎるほど返してもらっているわよ?」
「――オレには、それでも足りないほどなんです。それほど、多くのものをいただきました」
 だから、気にしないで欲しいと。
 受けた恩に対する、当然の行為なのだと、言い切る彼に、アリサはもう一度、小さく首を横に振った。
「――。本当に、私達は貴方に甘えてばかりね……」
「……アリサ夫人……」
 わずかに困ったような響きを宿した声音が、彼女の名を呼ぶ。
 その呼びかけに、アリサは顔を上げ――そして、彼の手をそっと取ると、その手を掴んだまま、深々と頭を下げた。
「―――、あの子のことを……お願いするわ」
 頭を下げられ、彼は困り果てたように目頭をしかめたが――だが、彼女の言葉に、大きく一つ頷き応えることは忘れなかった。
「はい――。オレの出来うる限りのことはします」
 ワアア……!
 遠くから、波立つような歓声が響く。
 それは。英国代表選手が決まったことを告げる鐘の音だった――――。






04年皐月中旬

副題。母は何でも知っている(笑)しかしアリサさんは今何歳なんでしょう? ロビンは還暦越えとりますが。
アリサさんはウォーズ=クロエだって知ってたと思います。ロビンは気付かなくても、アリサさんは気付いてくれると信じてます(笑)
ウォーズとケビンの『約束』は正確には約束じゃありません。そういえる部分は「次はいつ来る」と言った日に行かなかった位で(笑)
それについて設定はあるので、形が整ったらいつかアップしたいです。
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