――その日。 千葉・幕張メッセで行われた一期生と二期生の、日本駐在をかけた入れ替え戦決勝戦は、万太郎の――一期生側の勝利で幕を下ろした。 神奈川県内にある、とある超人病院。 既に日も落ち、面会時間も終わろうという、そんな時刻のことだった。 ヘルガ=エッセンが、ホテルに戻る夫を見送り、ジェイドの病室に戻ってくると、その扉の前に佇む人影を認めたのは。 「ブロッケン師匠……!?」 それが誰かは、すぐ知れた。 目前の集中治療室の中で眠っているジェイドの師である、伝説超人・ブロッケンJr.、その人だった。 本来ならば、ここにいることに何の不自然も無い。 だが、認知した人物の名を呟いたヘルガの声音に軽い驚きの響きが宿ったのには理由がある。 ブロッケンJr.は、ジェイドがこの病院に担ぎ込まれた時こそ付き添ってはいたが、手術後からぷっつりと病室には現れなかったからだ。 そのことを、ヘルガは薄情だと思わないでもなかったが、同時に仕方が無い、という気もしていた。 だからこそ、あえて見舞いに来ることを強要しなかったのだが――。 「――エッセン夫人 ヘルガの小さな驚きの声を耳に入れ、ブロッケンJr.が静かに彼女の方を振り返り――そして、小さく彼女の名を呟きこぼした。 そのまま、二人はしばらく黙ったままお互いを凝視していた。 互いに、次の言葉を選びかねて立ち尽くす二人の傍らを、ナースステーションから出てきた看護士が怪訝な表情で視線を流しながら、すり抜けていく。 その看護士の邪魔にならぬよう、ブロッケンJr.が身じろいだ。その動作が、なんとか次の言葉を生むきっかけとなりえた。 「――あの、ブロッケン師匠 「ああ……そうですね」 やけにぎこちなく、言葉を交わすと、ヘルガはブロッケンJr.にこの病院での集中治療室に入る準備を簡単に説明した。 扉の脇にすえられた消毒液で手を洗い、履物を病室用のスリッパに履き替え、二人は病室の戸を開け、中に入った。 病室の中には、様々な医療器具が所狭しと置かれ、心電を測る機械音や、点滴の落ちる水音が静かな室内にやけに響いていた。 壁の一面はガラス張りになっており、隣接したナースステーションで忙しく動いている看護士や医師の姿がよく見えた。 そして、その周囲を囲むカーテンが半ば閉められた状態になっているベッドの上には、包帯で包まれたジェイドが寝かされていた。 どちらともなく、ベッドの傍らに置かれた丸椅子に腰を下ろす。 そして、再び、言葉を探しあぐねたような沈黙がそこにおりた。 術後の経過だとか。 話すべきことはいくつもある筈だったが、それはどれも言葉という形を得ることは無く。 ただ、時間だけが流れていった。 長い、沈黙。 それを破ったのは、小さな囁きだった。 「ブロッケン師匠 常日頃、明朗で闊達な彼女らしからぬ、ほんの少し沈んだ――躊躇いがちな声音で、ヘルガは小さくブロッケンJr.の名を呼んだ。 その呼びかけに、ブロッケンJr.が眼差しを向けると、ヘルガも静かに振り返り、わずかに眉根を寄せて言いづらそうに言葉を続けた。 「……やっぱり……ボーヤの言ったこと、気にしていてますか」 ボーヤ……ジェイドの言葉。 それが指し示すものが分からぬほど、ブロッケンJr.も鈍くは無い。 つい三日前の――対スカーフェイス戦で。スカーフェイスの陽動の言葉を信じ込み、ジェイドがブロッケンJr.に言い放ってしまった、一連の言動のことだ。 あの時、夫の制止を振り払ってヘルガはそれを怒った。 ジェイドをたしなめた時に彼女が言ったように、ブロッケンJr.は第三者から見ても非常に厳しい師であった。 だが、はたで見ていたエッセン夫妻がそうと気付いたように、七年も共に過ごせば、師の人となりを知り、信頼に値する人物だと理解出来る筈だ。 だが、その信頼は、ただの一言で脆くも崩れた。 七年間という歳月で築いたものが、そうも脆弱なものであったと知って、何も感じない者はいないだろう。 この三日間、ブロッケンJr.が病院を訪れなかったのは、その所為ではないかと、エッセン夫妻はひそかに気に病んでいた。 ある意味では自業自得と言えなくも無いが、やはり、こんな形で師弟の関係が壊れては、ジェイドも可哀想だ。ヘルガはそう思ってしまうのだ。 「――フラウ」 ヘルガの問いかけに、ブロッケンJr.は一瞬、目を見開いて――そして、そっと首を横に振った。 「――それは確かに、まったく何も感じなかった、と言えば嘘になりますが……。この年頃ならば、うっかりと口が滑ることはよくあることです。実際、わしも覚えのあることです」 そうして、視線を膝の上で組んだ両の掌へと落とし――ブロッケンJr.は静かな声音で言葉を続けた。 「自分の感情だけで手一杯で、それを言われた相手がどう感じるかを失念してしまう……。言葉を返すことも出来ないほど心をえぐる言葉だったと、冷静になって気付くのは後になってからです」 そう呟いて、ブロッケンJr.は過去を思い返すようにわずかに目を伏せた。 「そうなると時間が経ってしまった分、顔を合わせづらく、きりだしにくい。謝罪するのに随分ばつが悪い思いをしたものです」 苦笑気味に口端を持ち上げて、ブロッケンJr.は短い回想をそう締めくくった。 「……その人は、許してくれましたか?」 ヘルガの問いかけに、ブロッケンJr.は微苦笑の表情のまま、そっと頷いた。 「――ええ。小さく笑ってね。気にしていないから忘れなさい、と言ってくれましたよ」 そして、静かに傍らのヘルガへと顔を向け――落ち着いた口調で小さくこう言った。 「多分、ジェイドが目を覚ましたら、わしもその時の彼と同じ言葉を告げるでしょう」 その言葉に、ヘルガは少し安堵したような吐息をこぼした。 そして、わずかに目を細めて、こう呟いた。 「――やっぱり、ブロッケン師匠 突然の言葉に、ブロッケンJr.は少し目を見開いて、ヘルガのほうを振り返る。 その、驚きのこもった表情に、ヘルガは我知らず頬を緩ませた。 「ちょっと、物言いがきついけど、いい人です」 微笑んで頷いたヘルガの言葉に、ブロッケンJr.は困ったような顔をしてかすかにかぶりを振った。 「――それは、買いかぶりですよ、フラウ。わしは、この歳になっても未熟な、情けない男です」 そう言うと、ブロッケンJr.は自らの組んだ手から、呼吸器を装着させられて眠り続けているジェイドへと視線を動かした。 そして、独り言めいた口調で、静かに口を開いた。 「わしはむしろ、ジェイドを育てる環境をちゃんと整えてやれなかった。師として大事なことを忘れていたという気がするんですよ――」 わずかに目を細め――眉根を寄せて、どこか苦い語調でブロッケンJr.は言葉を続ける。 「この子の世界はあまりに狭い」 苦く――苦しげな声音が、その短い言葉を搾り出した。 そして、ブロッケンJr.の苦悩をあらわすように、その膝の上で組まれた両の拳が強く握り締められた。 「もっと多くの人と触れ合わせる必要があったのだと――もっと、多くの価値観、多くの意識と触れ合い、“世間”というものを教えてやるべきだったと、今更ながらに思う」 超人レスラーとして鍛えることしか、出来ていなかった。 ただの“子供”として心理面を育てることを失念していた。 ブロッケンJr.は、苦い声で、そう語る。 「この子は、疑うことを知らない」 ある一面では、それは美点になる。 だが。 他人の言葉を全面的に信じる、ということは、判断のすべてを他人に任せることにもつながってしまう。 “思考”と“判断”を他者に託し、それを享受するだけでは――“個人”として大いに問題であろう。 「他人の言葉が偽りである可能性を視野に入れない。自分の価値観が万人と共通のものだと、信じて疑わない。世界の多様性に気付いていない。――それでは、一人の“人”として生きていくことが出来ない……」 価値観というものが一定でないこと、絶対的に普遍的な常識というものは少ないこと、そのことに弟子は気付いていない、とブロッケンJr.は語る。 そして、己にとって当然のことが他者にとってそうではないことも、だ。 ジェイドは、己が偽りを口にしないなら、他の皆もそであろう、と思い込んでしまっていたのだろう。 だが、“自分”と異なる考えが存在することは、“他者”と交わることでしか知りえないことだ。 しかし、ジェイドの場合、彼にとっての“思考を知りえる他者”は師とエッセン夫妻しかいなかった。 絶対的に信ずるべき価値観は師匠の持つもの。 信頼を寄せるべき相手は師と、親愛を与えてくれる夫婦。 そして、心の内で大切に想う、亡き養父母の面影。 ジェイドの世界は、ただ、それだけで完結していたのだと、今更ながらに気付かされた。 そんな、狭い世界で育ってしまったが故の弊害が、あの時出てしまったのだと、ブロッケンJr.は言う。 「戦う術ばかりではなく、人との付き合い方、世の中というものも教えねばならなかったと、今回痛感しましたよ。まったく――我ながらひどい手抜かりです」 自嘲にも似た笑みを口端に浮かべて、ブロッケンJr.は自らの過ちの告白をそう締めくくった。 そんなブロッケンJr.の言葉に、ヘルガは随分長く押し黙っていたが――意を決したように、顔を改めてブロッケンJr.の方へと向け、口を開いた。 「ブロッケン師匠 突然のヘルガの言葉に、ブロッケンJr.は視線を眠るジェイドから傍らに座るヘルガへと動かした。 互いに真っ直ぐに相手を見据えあいながら、ヘルガはやや早口でさらに言いつのった。 「マニュアルなんか、無いんですよ。誰だって、手探りなんです。後から『こうすればよかった』って思っちゃうのは仕方ないんですよ。だって人間が人間を育てるんですから」 絶対的に正しい子育てなど無い、と。 人なのだから失敗するのは当たり前だと。 そう主張する言葉の陰に、駄目だったと思うならばやり直せばいい、という気遣いの思いが滲んでいた。 「――そうですかね」 ヘルガの励ましに、ブロッケンJr.は小さく苦笑の入り混じったような微笑をこぼす。 「そうですよ」 その問い返しの言葉に、ヘルガはやけに力強く大きく頷いた。 あまりにはっきりとした肯定に、ブロッケンJr.はますます苦笑するしかなかった。 「――いや、本当に情けないことです。子供と接したことが無かったものでね。どう扱ったらいいのか分からんのですよ。だから、つい、大人と同じように扱ってしまう……。その所為で、ジェイドには悪いことをしていたかも知れません」 軽くかぶりを振って、ブロッケンJr.は自らの過去を振り返ってそう呟いた。 親等の近い親族に同世代の子供はいなかったし――共に徽章を求め修行した、年頃の近い、だが血は遠い親戚達も、一人、また一人と脱落していき、十歳になる頃にはブロッケンJr.しか残らなかった。 父親をはじめ、大人ばかりに――それも成人男子ばかりに――囲まれて育ったからか、ブロッケンJr.が幼い子供と密接に接したのはジェイドが初めてだった。 「心配、しすぎですよ、ブロッケン師匠 軽く眉をひそめて複雑な微笑をこぼすブロッケンJr.に、ヘルガは小さく笑んでそっとかぶりを振った。 「一度、この子が言ったことがあるんですよ」 ぽつり、と呟いて、ヘルガは静かに視線を眠るジェイドへと向ける。 「まだ小さい頃、夜寝付くまで師匠がずっと傍に寄り添ってくれていたって。それがすごく心地よくて――安心して眠れたって……」 小さな声音でそう語りながら、ほんの少しの痛ましさのにじむ眼差しでヘルガはベッドの上のジェイドを見ていた。 その言葉を聞きながら、ブロッケンJr.もまた、無言のまま視線を眠る弟子へと落とす。 養父母が殺害されて、ブロッケンJr.の元に来るまでの間、ジェイドは一人だった。 その頃は、安心して熟睡など出来なかったのだろう。 傍に他人の体温のある安心感。 それが当たり前のことだと、意識することも無いことがどれほど幸福なことか。 今更ながらに、ジェイドの精神的な基盤は足場が狭く脆いのだと、気付かされる。 一般的に、子供なら大抵はあてはまる筈の、“無条件で愛情を与えて庇護してくれる親”の存在がジェイドに対しては希薄なのだと。 血のつながった親はおらず。 精神面でつながった養父母は亡くし。 師匠への依存は、その反動だろうと容易に知れた。 ――だからこそ、疑うことなく受け入れたスカーフェイスの言葉に過剰なほど反応したのだろうけれど。 「――とはいえ、こうも育った今では、昔のように添い寝、というわけにはいきませんな」 不意に。 ブロッケンJr.が呟いた言葉に、ヘルガは目を丸くして隣に座る彼を振り返った。 向けた視線の先には、真顔で考え込むブロッケンJr.の横顔。 どうやら、覚醒し、師の顔を見た時に弟子が感じるであろう悔恨の念を少しでもやわらげてやる術を思案しているらしいが――。それにしても……。 ぷ……。 思わず、噴出してしまったヘルガに、ブロッケンJr.は軽い驚きと戸惑いに目を見開いて、彼女の方に顔を向けた。 「……そうですね、今更、子ども扱いも出来ませんしね」 くつくつと、語調を震わせながら、ヘルガはなんとかそう言葉をつむぎだした。 肩を震わせ、背中を丸くしているヘルガの様相に、首を傾げながらもブロッケンJr.は同意の言葉を吐き出す。 「ええ。もう子供ではありませんからな」 そう言って、ちらり、とベッドの方へと視線を向けた。 「わしのところに来た時は片手で抱えられるほど小さかったというのに……」 小さくそう呟いて、ブロッケンJr.はわずかに目を細めた。 まだ、超人レスラーとしては小兵だが、人間から見ればかなり立派な体格をしている。 まして、超人の成長は人間のそれとは比較にならないほどの急激さだ。 たった七年でも――見違えるようになっていてもなんら不思議ではない。 だが、やはり、直接育てた側からすれば、その成長に目を向けることは深い感慨を伴うものだ。 ブロッケンJr.の感慨深げな呟きに、ヘルガも笑いを腹の内に押し込めて、七年前の少年の姿と眼前の姿とを瞼のうちで見比べてみる。 「……そうですね。うちの店のショーケースの天板にも届かなかったんですよ、この子の頭。なのに、あっという間にわたしの身長も抜いちゃって……」 「もう何年かすれば、わしも抜かされるでしょうな」 「その前に、うちの亭主が抜かされますよ。それとも、もう、抜かされてるかしら?」 「さて? どうでしょうな」 小さな声音でそう言いあい、そして、どちらともなく静かに笑みをこぼした。 その時。 ぴくり、と。 ベッドの上に投げ出されていたジェイドの左手の指先が、小さく震えた。 そのわずかな動きを察知して、ブロッケンJr.が腰を浮かせた。 ブロッケンJr.の反応に、ヘルガも目前の変動に勘付き、椅子から立ち上がって、逆側に回り込んでジェイドの顔を覗き込む。 「――ジェイド」 小さく、ブロッケンJr.が弟子を呼ぶ。 「ボーヤ?」 ヘルガもまた、それに続けて呼びかけた。 その声が聞こえたのか。それが呼び寄せたのか。 震えるジェイドの瞼がゆっくりと持ち上がり――うっすらとその翡翠色の双眸が外気にさらされた。 「ボーヤ! 気がついたのかい?」 入院三日目にしてのようやくの覚醒に、ヘルガの口から安堵と喜びの入り混じった声がこぼれた。 同じくジェイドの顔を覗き込んでいたブロッケンJr.の口元にも、安心したような微笑がにじむ。 まだはっきりと見えていないのか、二度、三度と緩慢に瞬き――それから、ゆっくりと眼球が左から右へと動いた。 「ジェイド。――分かるか? ここは病院だ。手術ももう終わった。あとはゆっくりと身体を休めて――傷を癒すだけだ」 意識が覚醒しきっていない弟子に、ブロッケンJr.は一言ずつしみこませるように状況を説明する。 自身でも経験のあることだが、大きな負傷の後、意識を取り戻した時は、今、己の置かれている状況を咄嗟に認識出来ないものだ。 だから、事態を把握しやすいよう、端的に今の状況を説明してやった。 それが狙い通りに働いたのか、ぼんやりと霞がかったような光を宿していた翡翠色の眼差しが、みるみる焦点をあわせ、明瞭さを取り戻していく。 その視線が、今度は明確な意思の元動かされ――ブロッケンJr.へと固定された。 そして、呼吸器の下で、わななくように唇が震えた。 「…………ごめんなさい」 呼吸器越しにつむぎだされたのは、小さな、謝罪の言葉。 「ごめんなさい……レーラァ……ごめんなさい……」 小さな、消え入りそうな小さな呟きは、かすかに震えていた。 声音を振るわせる原因は一目瞭然で。 寄せられた眉根と、目尻の端から零れ落ちた水滴が、その理由だった。 嗚咽に声を震わせ、それ以外の言葉を忘れたようにただただ謝り続けるジェイドに、ヘルガはほんの少し困ったように顔を上げ、向かい合った位置に立つブロッケンJr.に眼差しを向けた。 そして。次の瞬間、ヘルガは安堵の色をその目に浮かべた。 ――視線を向けた相手は。 ほんの少し苦笑の入り混じった表情で――けれど確かに、微笑んでいたから。 泣きながら、謝罪を繰り返す弟子の髪を、ブロッケンJr.はそっと梳き。 静かに微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。 その後に続く言葉が、先程告げたとおりのものだということを。 その表情だけで、ヘルガは聞かずとも分かった気がした――――。 了
2004年師走上旬 |
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