1979年、秋――ドイツ・西ベルリン。 そこは、市街地の中心から少し外れたところにある、静かな墓所だった。 穏やかな昼下がり、真白の墓石に左右を挟まれたその石畳の道を歩く二人以外には人気はない。 その二人連れはともに長身で、もし、他に人目があれば、ただ歩いているだけでも、それを縫い付けるには充分過ぎるほどに目を引く二人だった。 二人の内、年長の方はプレスのきいたワイシャツに仕立てのよいスーツを身に着けており、髪も丁寧に撫でつけられ、その姿勢の良さもあいまって、見ているだけでも彼の生真面目な人となりがにじみ出るような様相だった。 その隣を歩くのは、彼の半分ほどの年齢の若者だった。 身体の大きさからすれば、青年、といっても差し支えはないだろうが、その顔立ちだけ見れば、まだ、少年、と言ってもいいかもしれない。 隣の年長の男よりは頭半個分は背が高く、また、隣の男同様、全身に筋肉がしっかりとついた体躯をしていた。 年長の男よりは活動的な服装に身を包み、その頭は髪の毛の判別がし難いほど短く刈り込まれている。 そして、年少の方の青年――あるいは少年――は、片手に色とりどりの花束を持っていた。 「なあ、親父」 隣に立つ父親に視線を向けて、彼は口を開いた。 声をかけられ、父親も顔をあげ、いつの間にか己より背の高くなった息子の顔を見上げながら、視線だけで言葉の続きを促す。 表情こそほとんど表にあらわれないものの、この穏やかな様相で佇む男が、世間では『ドイツの鬼』などと称されている超人レスラー・ブロッケンマンだとは誰も思わないであろう。 それは、息子や、ごく身近な身内以外は知らない、残虐ファイターのリングの下での顔だった。 「なんで、今日なんだ?」 父親とは逆に、表情の豊かな息子が、不思議そうに首を傾げながら発した言葉に、ブロッケンマンはかすかに眉根だけ寄せて、問いかけに対する疑問の意をあらわす。 「だってよ、授与式は明日だろ? おふくろに報告するんだったら、普通はさ、徽章をつけてリングコスチュームを着た姿を見せるもんじゃねえのかな、って思っただけなんだけどさ」 言いながら、息子は視線を下へと転じた。 その視線の先にあるのは、掃除の行き届いた、白い墓石。 十七年間、数え切れぬほど通った墓前だった。 先刻まで息子の手の中にあった花束が供えられたその墓の中に眠るのは、彼の母親であり、ブロッケンマンの妻であった女性だった。 「おかしいか?」 「……おかしいっていうよりは……ちょっと不思議だなあ、かな?」 息子の言うとおり、ブロッケン一族の超人レスラーの証である髑髏の徽章をこの息子に与える徽章の授与式は明日だ。 母親の墓前に報告に訪れるのならば、普通は式の前日ではなく、式の後だろう。 息子の抱いた疑問を説明する言葉に、父親は納得したように頷いた。 「そうか」 ――本来なら、徽章の授与は十八歳の誕生日に行われるのだが、彼ら父子の場合、その慣例を曲げざるを得ない事情があった。 父親であるブロッケンマンの、超人オリンピック出場がそれだ。 超人オリンピックというものは、四年に一度しか行われない、超人にとっては栄誉ある祭典なのだが、人間のスポーツのオリンピックとは異なり、開催の日取りや期間は固定されていないのだ。超人オリンピックの日程はすべて直前にしか発表されない。 そもそもが、戦闘能力の低下を抑止するのが目的である為、どのようなスケジュールであっても、各々の超人は己のコンディションをベストのものに整えるべし、とされている。 極端な話、超人オリンピックの日程は、その時の実行委員の胸三寸で決定される。その為、短期であれば、予選から決勝トーナメントまでの期間が一ヶ月の年もあれば、逆に、半年以上の長期間にわたって開催されることもあるのだ。 そのような事情で、息子の十八歳の誕生日の時期、父親であり一族の当主であるブロッケンマンのスケジュールが確定出来ない状態にあった。 遅れるよりは早める方が良かろう、ということになり、息子は、例外的に十八の誕生日より早く徽章を与えられるはこびとなったのだった。 「お前の母さんに、レスラーになる前のお前を見せたかった。それだけだが……そうか」 小さく呟き、頷くブロッケンマンに、息子は溜め息混じりに声をかけ、意識をこちらに引き戻そうとする。 「親父。一人で納得して、自己完結するなよ」 息子の言葉に、ブロッケンマンは軽く首を傾げた。 「なんだ? 私の考え方は少数派なのか、という認識を新たにしていただけだが?」 「……超人協会の連中が聞いたら目を丸くするだろうな。親父って絶対天然だろ?」 再度、溜め息交じりの呟きをもらす息子に、当の父親はかすかに首を傾げるだけだ。 レスラーとしての戦歴からは、かけ離れた父親の言動は、息子からすればいつものことだが、リングの上の姿やファイトスタイルしか知らぬ者たちからすれば、奇異以外の何者でも無いだろう。 基本的に口数は多くない上、表情も滅多に動かさない為、余計と、だ。 世間は絶対にこの父親の表面上の姿に騙されている、と息子は思わずにはいられなかった。 「で、さ。話を戻すけど、なんでレスラーになる前、なんだ?」 軽く呼気を吐き出して、息子は父親に改めて問いかける。 その視線を受け止めて、父親は静かにこう応えた。 「――。深い意味はない。ただ、血の臭いがつく前に、一度お前の姿をお前の母さんに見せたかっただけだ」 静寂にも似た、その声音が告げたのは、声の静けさには似ぬ、重みを持った言葉だった。 それは、超人、という生き物であればこそ、紡ぎ出された言葉とも言えた。 応じる言葉を咄嗟に口に出せなかった息子に、父親は静けさを孕んだ語調のまま、わずかに口端を笑みの形に吊り上げ、言葉を続けた。 息子に対して、染み込むように注がれるその言葉と視線は、静やかで、そしてどこか穏やかな口調と表情だった。 「リングに上がる前ならば、血の臭いはついていないだろうが……超人になる前の、普通の、人間並みの姿を最後に見届けさせたかった。ただ、それだけだ」 その言葉に、息子は声も無くただ、父親に視線を向けるだけだった。 そして、ひと時、沈黙が流れる。 「……なあ、親父」 父親の言葉を噛みしめるように、あるいは吟味するように、しばしの間、口を閉ざしていた息子が、ゆっくりと口を開いた。 「親父は……自分のファイトスタイルに、なにか、納得いかねえところでもあるのか?」 「いいや。何故だ?」 息子の問いかけに、意外そうに軽く目を見開いて、父親は小さく首を横に振った。 「……だってさ。その言い方じゃまるで、血を流させるのは悪いみたいじゃねえか」 実際に、息子は父親の試合を見たことはない。 だが、試合後のリングコスチュームを濡らす返り血を知っている。 今までのあらゆる試合結果を、聞き知っている。 それらは『ドイツの鬼』という二つ名が誇張ではないことを、常に雄弁に物語っていた。 そんな、流血ファイトをみせる超人レスラーの口から、まるで自分のファイトスタイルを否定するかのような言葉が飛び出したことに、息子はいささか驚きと戸惑いを感じていた。 「――。事実、褒められたことではないぞ」 そっと目を細め、淡々と、だが、はっきりとした口ぶりで、父親はその先の言葉を紡ぐ。 「私は、己のファイトスタイルに後ろめたさを感じたことはない。私自身の信念にもとづき戦っているのだから。だが、一般的に傷付けること、殺すことは、決して褒められることではない」 普段、口数が決して多くはない父親の長広舌に、息子はわずかな珍しさを感じながらも、その言葉を聞き逃さぬよう、真摯に耳を傾ける。 言葉ではなく態度で語ることの多い父親が、言葉を使う時は、その言葉によって絶対に伝えたい何かがある時だと、知っているから。 だからこそ、真剣に一字一句聞き逃さぬよう、意識を傾けた。 「だが、私は超人だ。戦いによって守ることしか知らん。そして、戦う以上、負けることは出来ん。だから、例え対戦相手を死に追いやっても、手加減は出来ん。それが、私の信念だ」 背筋を真っ直ぐに伸ばし、揺らがぬ眼差しを真正面に向け、ブロッケンマンは静かな、そして確かな口調で、その言葉を己の声音に乗せた。 戦いというものの非情さを知り、己の為していることを理解しているからこその、覚悟にも似た信念を、当然のように言葉に乗せる。 賞賛というよりは忌避と呼ぶべき二つ名を進呈されたファイターは、その異名を恥じるでもなく、誇るでもなく、ただあるがまま受け入れていた。 それゆえの、揺らぎなさだった。 「だがな、Jr.」 その、静寂の中にも強い意志を内包した眼差しと、変化に乏しい表情とが、かすかではあるが、ふと、和らいだ。 「お前が、私と同じ信念を持つ必要性はないぞ」 先まで語っていた言葉とは対照的なほどの、穏やかな笑みを目元と口端ににじませ、ブロッケンマンはゆっくりとその先の言葉をつむぐ。 「いや。むしろ、私のようになろうとするな。Jr.」 そして、かすかに笑みをたたえたまま、そっとかぶりを振った。 「確かに、お前は私の息子だが、同時に、お前の母さんの息子でもある。私一人の息子ではないのだから、私に似る必要はない。むしろ、私に倣おうとするのではなく、『お前』になれ。他の何者かの模倣ではなく、独立した一個の個性としての自身の存在を確立するべきだ。『私の息子』ではなく、私が『お前の父親』だと世間に言わせてみろ。……いいな、Jr.」 言い聞かせるような、言葉。 でありながら、請うような、言葉でもあった。 そして。 新たなる道を歩き始める息子への、これ以上ないはなむけの言葉でもあった。 「……Ja.」 きっ、と、唇を引き締めて、姿勢を正し、息子は短く、だが、はっきりとした声音でその父の言葉に応える。 ――その言葉が、近い将来、遺言の代わりともいうべきものになることを。 その時は、父も、息子も……何人も知り得はしなかった――――。 了
2004年文月中旬 |
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