「あなた……?」 呼びかけながら、少しだけ首を傾げてしまったわ。 だって、夕食の片付けをして。 晩酌の用意を持って、居間に入ったら。 貴方ったらソファに座ったまま、目を閉じて小さな寝息を立ているんだもの。 子供じゃないんだから、きちんとベッドに入ってから眠らなきゃ駄目じゃない。 そうね、今日は試合だったから疲れているのは分かるけれど。 でも、いくら貴方が超人レスラーとしては小柄といっても、人間として見れば結構大柄なのよ? 女の私の力じゃ寝室まで運べないもの。困るわ。 苦笑しながら、手に持っていたトレイをテーブルに置いて、急いで膝掛けを取りに行ったわ。 いくら超人が丈夫で滅多に病気をしないって分かっていても、妻としてこのまま放ってはおけないもの。 だから、持ってきた膝掛けを毛布代わりに貴方にかけて。 それから、起こさないよう静かに眠る貴方の隣に座り。 瞼を閉じた貴方の顔をそっと覗きこんだの。 いつもは軍帽に隠された貴方の顔を、こんな風に見れるのは私だけね。 妻の特権、だわ。 くすぐったいような、嬉しい気持ちを感じながら、そっと貴方にすり寄りその肩にこっそり頭を預ける。 こうやって寄り添っていいのも、私だけでしょう? そんなことを思いながら、私は貴方の手に自分の手を重ねて――それから両手でその手を包むように取った。 私のそれより、一回りは大きくて……鍛え上げられた戦士の手。 タコが出来て硬くなった掌と拳。 それから……爪の間に入り込んだ赤い――血。 きっと、今日の試合でついたのね。 怪我をしている様子はないから……きっと、対戦相手の返り血。 今日の試合はどうだったのかしら? 勝ったのかしら。……そうね、貴方はきっと負けないでしょうから、勝ったと思うわ。 試合の相手はどうなったのかしら。 決着がついた時、ちゃんと自分の足で立っていたかしら? それとも、倒れ伏していたのかしら。 もしかしたら――息もしていなかったのかしら? ねえ、あなた。 貴方も知っているとおり、私は、超人になった貴方の試合を一度も見たことがないわ。 でも、噂には聞いているのよ? 『ドイツの鬼』と呼ばれる超人レスラーのこと。 血も凍る残虐ファイトを見せるルーキーのこと。 もちろん、私は貴方がどんなファイトスタイルで闘っていても気にしないわ。 貴方が自分の納得のいく試合が出来るなら……ついでに勝って、無事に帰ってきてくれればそれだけで充分なの。 でも、ね。 貴方は不器用だから。 貴方は誠実すぎるから。 だから、とても心配なの。 ねえ、あなた。 私が……ううん、兄さんもだけど――私達が、髑髏の徽章を与えられて仕立てたばかりのリングコスチュームに身を包んだ貴方を見て、どんなに驚いたか知っていて? ええ、軍服をまとうのが一族の伝統だって、知っているわ。 でも、よりにもよって、この西ドイツで、鉤十字を身につけるだなんて。 私も兄さんも、本当に驚いたのよ? それから、貴方が周りからどう思われるか考えて……本当に心配したのよ? ――いいえ、解ってはいるの。 貴方が、それを選んだ理由を。 あえてそれを選んだ理由を、解っているつもりよ。 ……風化させたくなかったのでしょう? 祖国の過去の悲劇を。 同国人の犯した罪を。 そして今、引き裂かれている同胞の悲哀を。 あえて、私達ドイツ国民が過去に葬りたいと思っている悪夢の象徴をまとうことによって、貴方は国に、世界に突きつけているのだわ。 今も、私達ドイツ国民にとって悪夢は終わっていないのだと。 同じ名を持つ国と国民が東西に引き裂かれるという形で、私達の大戦はなお続いているのだと。 忘れるな、目を背けるな、と。 貴方は言葉にせず、全身で叫んでいるのね――。 本当に不器用な人。 本当に誠実すぎる人。 だから……側にいたいの。 私は兄さんのように一緒に闘えないから。 だから、せめて貴方の安らげる場所を作ってあげたい。 せめて側にいて、貴方を休ませてあげたい。 「……愛してるわ、あなた。大好きよ――」 だから。 私はリングに立つ貴方のことは何も知らないでいるわ。 貴方が誰に傷付けられても。 貴方が誰を葬っても。 貴方がどれだけ血に濡れても、私は何も知らない、無知な女でいるわ。 血の匂いも、闘いの凄惨さも、何も知らない、分からない愚か者でいるわ。 この家で、夫の帰りを待つだけの平凡な妻でいるわ。 そうして、せめてこの家の中だけは貴方にとって全ての煩わしさから解き放ってあげたいの。 此処にいる時だけは……。 貴方に、退屈なほどの平穏を――――。 了
2003年皐月作成 |
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