――病棟の屋上を、初夏に近付きつつある季節をはらんだ風がわたり、白いシーツの群れをはためかせる。 その屋上の奥、フェンス際に、ラーメンマンが追っていた人物――ブロッケンJr.は俯いてたたずんでいた。 「……ブロッケンJr.」 低い声音で、静かに名を呼ぶ。 呼びかけられたその背は、両の手でフェンスを握り締めたまま身じろぎもしなかったが、ラーメンマンの声はその耳に届いている筈だった。 ブロッケンJr.から十数歩の距離をおいた位置で、ラーメンマンはその場に立ち止まり、彼が振り返るのを待つようにただ黙してそこに我が身を置く。 そして、その場には風に揺れる洗濯物だけが時間の流れを感じさせるような静寂がしばし流れた。 「……なんでだよ」 その沈黙を破ったのは、搾り出すようなブロッケンJr.の呟きだった。 握り締めた掌に傷がつきそうなほどにきつくフェンスをつかみながら、ブロッケンJr.は言葉を発さぬラーメンマンへと背中ごしに言葉を叩きつけた。 「親父を殺したくせに、なんでそんななんだよ!?」 「……」 悲鳴にも似た、苛立ちと困惑を宿したその叫びを、ラーメンマンは身じろがず、静かに受け止める。 「そんな風に、何もかも分かった顔するなよ!」 きつくフェンスを握り締めながら、顔を己の足元に向けた状態で、ブロッケンJr.はそれしか出来ぬように、ただ声を荒げて叫んでいた。 「したり顔で、物分りよく頷くなよ!!」 ただ単純に憎めるだけの、情理のない男でいてくれれば。 人の温みもない、ただの殺人鬼ならば。 倫理を説いても理解出来ぬ人でなしならば。 それならば、揺らぐことのない憎しみを向けられるのに。 音にはならぬ言葉で、ブロッケンJr.はそう絶叫していた。 おそらく、彼の客人とラーメンマンの会話の一部始終を聞いてしまったのだろう。 それを聞いたが為の、戸惑いがブロッケンJr.の背中から感じ取れた。 肩を震わせながら、ブロッケンJr.は足元に落とした視線を上げようともせず、語調を揺らして呟きをこぼす。 「畜生……なんだよ、それ……。どいつもこいつも、口を揃えて復讐はやめろ、ときやがる――キン肉マンも、だ」 「キン肉マンが……?」 意外な人物の名は、ラーメンマンに軽い驚きをもたらした。 軽く目を見開き、その名を繰り返したラーメンマンに、背を向けたままブロッケンJr.はポツリポツリと言葉を重ねた。 つい先程、病院の一角で顔をあわせたキン肉マンが何を口にしたか、を。 『のう……』 ひどく情けない表情で、言いづらそうに口ごもっていたようだが、それでも、彼はこう言ったのだそうだ。 『ラーメンマンが許せん気持ちは分からんでもないが……何と言うたらよいかのう。その、ラーメンマンのことを知って欲しいんじゃ。知って――それから、もう一度、復讐をするかどうか、考えて欲しいんじゃ』 不器用な言葉を重ね、復讐を諦めて欲しいと嘆願した男は、ブロッケンJr.の返答がないことに居心地の悪さを覚えたのか、わずかな沈黙の後、踵を返したのだという。 『帰るぞ、ミート』 『え? 待って下さいよ、王子!?』 ミートの困惑にも似た呼び止めに足も止めず、病院の敷地から出て行ったのだそうだ。 「……キン肉マンが、そんなことを……」 ブロッケンJr.の簡素な説明を聞き、ラーメンマンは小さく、独り言のように言葉をこぼす。 「……言いたいことだけ言って帰りやがったぜ……」 吐き捨てるようなブロッケンJr.の言い様に、薄く苦笑を口元にただよわせ、ラーメンマンは呟いた。 「……少々お調子者で、口が滑りやすく、そして、お人よしな男だからな――」 臆病なくせに、土壇場では、友を見捨てられない。我が侭なくせに、結局、最後の最後には他人の為に動いてしまう――その男に、動かされた者は何人もいる。ラーメンマンもまたその内の一人だった。 「…………どいつもこいつも、人の気も知らねえで好き勝手言いやがって……」 それは、苦さを噛みしめるような、呟きだった。 キン肉マンに向けたものというよりは――誰でもない、形さえ定かでない何か、に向けて発せられた言葉のように感じられた。 「恨むな、だと? そんなこと、オレと同じ立場に立ってから言いやがれっ……!!」 苦々しく吐き捨てるその呟きは、ある意味では非常に正直なものといえた。 被害者であり遺族である者からすれば、欲してもいない周囲の慰めや説得は、お節介以外の何物でもないだろう。 その、ブロッケンJr.の言葉に、ラーメンマンは深く頷いて、こう口を開いた。 「――そうだな。確かに、わたしはお前の父の仇だ。お前にはわたしを恨む権利がある」 ブロッケンJr.にはラーメンマンを恨む権利がある、というよりは、彼の恨みを受け止めることは己の義務なのだ、と、ブロッケンJr.に初めて会ったあの時からそう思っていた。 何も言わず、受け止めることが、自身の責務なのだ、と。 しかし。 彼の叫びをすべて聞くことと――聞くだけで応えぬことは、まるで違うのだ。 ブロッケンJr.の言葉を聞き、そして、ラーメンマンは己が言うべきことを言わねばならなかった。 自分には彼の復讐を遂げさせることが出来ないことを。そして、その理由を。 それこそが、本当の意味でラーメンマンが負うべき責任なのだと。 「だが、お前には、憎しみの感情で誰かを殺すことは、出来ない」 けれど、謝罪の言葉は口にはしない。 それを口にすることは、ブロッケンマンとの試合を過ちにしてしまうからだ。 殺したことは罪ではある。 しかし、あの試合は、ラーメンマンにとっても、ブロッケンマンにとっても、間違いでも過ちでもなかった。 戦うべくして戦い、そして、あの結果を生んだのだ。 ブロッケンマンを殺害したことに対する非難を甘んじて受けても、そのことを謝罪という言葉ですませることだけはしない――いや、超人としてそれはしてはならない。 なにより、「すまなかった」の一言ですませることは、己の責務を果たすこととなりえないことをラーメンマンは知っていた。 たとえ厚顔といわれようとも、言葉だけの謝罪は口にはしない。 淡々とした口調で、謝罪ではなく諭す言葉をつむぎながら、ラーメンマンは一年前、ほんのわずかまみえた男のことを思い起こす。 まともに言葉を交わすことなく、殺した男のことを。 「ブロッケンマンが、お前をどのように鍛えたかは知らん。だが、正義超人として持つべきものは与えただろう、ということだけは、よく解る」 それは、ラーメンマンがブロッケンJr.と接したわずかな時間の中で感じたものだった。 彼は、壊す者ではない。護る者だ、と。 ブロッケンJr.の拳は、何ものかを破壊する為ではなく、何かを守る為にふるえばもっともその力を発揮するだろう。 残虐超人として名をはせた“ドイツの鬼”の息子としては意外ともいえるだろう。 だが、おそらくブロッケンマンは、己の息子を“己の模倣品”として育てるつもりだけはなかったのだ、ということは嫌というほどよく分かる。 ブロッケンマンは、息子であるブロッケンJr.に父親とは異なる道を歩ませようとしたのだろう。 なればこそ、ラーメンマンにはこの言葉を言わねばならなかった。 それこそが彼を殺した者の負うべき責務であり――為すべき贖罪なのだから。 「――仇であるわたしが言うべき言葉ではないだろうが、もう一度言う。父親の復讐は忘れろ。お前は、負の感情を原動力にして強くはなれない」 残虐ファイトでは、彼の実力を発揮出来ない。 ブロッケンJr.の持ち味となりえるのは、クリーンファイターとしての道なのだ。 何故なら、ブロッケンJr.の内面には、わずかな接触でも分かるほどに、負の感情の土壌が存在し得ないからだ。 人を憎みきれる男ではない。――親の仇へ向ける拳でさえも鈍るほどに。 それは、ある意味では、ブロッケンJr.が周囲からいかに愛されて育ったかの証明でもあった。 きっと、ブロッケンマンは息子に愛情をもって接したのだろう。 愛情深く育てられたからこそ、ブロッケンJr.はこうも情深く育ったに違いなかった。 「わたしだけではない。少なくとも、あの御仁はお前の為に復讐をせずにいて欲しいと思っている。その気持ちが、分からないわけではないだろう?」 彼――ラーメンマンに、ブロッケンマンの命の上に成立している生を無駄にするなと説いた彼の客人。 彼の客人もまた、ブロッケンマン同様、ブロッケンJr.に愛情をもって接したのだろう。 少なくとも、彼の手が無益な流血で濡れることを厭うほどには。 「――そんなこと」 その時、ラーメンマンの言葉を大人しく聞いていたブロッケンJr.の口から、風にかき消されそうなほど小さな呟きが吐き出された。 「そんなこと、分かってる!!」 その呟きは、次の瞬間、血を吐くような絶叫に変わった。 叫びを吐き出し、ブロッケンJr.は身体ごと勢いよくラーメンマンのほうを振り返る。 「伯父貴が――親父達が、オレにはクリーンファイターでいて欲しがっていたことぐらい、あんたなんかに言われなくったって知ってる!!」 ラーメンマンに正面から向き合いながら、ブロッケンJr.はまるで八つ当たりのように――やたらめったに叫びちらしていた。 分からない筈が、ないのだ。 周囲の人間がすべて、ラーメンマンの擁護をする為に復讐を捨てることを説いているのではないと。 ブロッケンJr.を想うがゆえに、復讐から遠ざけたがっていると。 その心遣いが分からぬわけではないのだ。 だが、ブロッケンJr.の感情は、理性の制止でとどめきれないでいる。 分かってはいても、従えぬこともまた――事実だった。 「――だからって、オレは伯父貴みたいに物分りよくなれねえよ! なれるわけ、ねえだろ!!」 叫びを上げながら、ブロッケンJr.はその視線を足元へと落とし、顔を下へと俯かせる。 ブロッケンJr.の吐き出した叫びは、正否はともかく、情としては当然の主張だった。 第一、まだ十代の若者にとっては、理屈よりも感情の方が先行するのも、当たり前のことだともいえる。 その意味では、ブロッケンJr.の倍ほどの年齢に見えた彼の客人とは状況がまったく異なるともいえた。 若さゆえに、許せぬこともあるのだ。 「伯父貴が言ってることが間違ってないことだって、分かってるよ……。けど、親父が殺されたのになんで、親父を殺したあんたを、許せるんだよ! 親父は……オレの、たった一人の父親なんだぞ!?」 おそらくは、ブロッケンJr.自身、持て余しているのだろう、激情を言葉という形を借りて己の内から吐き出す彼に、ラーメンマンはそっと頷くと、低く、静かに応えを発した。 「――分かっている。だから、わたしを恨むな、とは言わん」 そっとつむぎ出されたその言葉に、ブロッケンJr.は顔を下に向けたまま、口を閉ざす。 言葉を吐き出すことを止めたブロッケンJr.に、ラーメンマンは感情を抑えた声音で、その続きをつむいだ。 「憎むのも恨むのも止めろなどと業腹なことを説きはせん。だが、わたしはお前の復讐をとげさせることだけは出来ん」 決して声を荒げずに、ラーメンマンは静かに、だが、毅然とした語調で言い切る。 一つの過失を別の過失をもって埋めるような愚かな真似はするわけにはいかなかった。 「――それは、お前の父親を殺しただけではなく、お前自身の心をも殺すことになるからだ。今更だとお前は思うだろうが、わたしはこれ以上、お前から何かを奪いたくはない。例え、それが贖罪となりえなくとも、だ」 視線を逸らさず、言葉と態度とを真っ直ぐにブロッケンJr.に向けながら、ラーメンマンは語り続ける。 復讐を為せば――己の正義の為でも、信念の為でもなく、ただ憎しみだけで人を殺せば、ブロッケンJr.の内にはおそらく拭いきれぬすさみの色が残るだろう。 そうすれば、今ここにいる“ブロッケンJr.”という心は、失われてしまうだろう。 それは、一人の存在の心を殺すにも等しい。 「復讐を捨てろ、と言われても、すぐさま気持ちを切り替えることは出来まい」 しかし、ブロッケンJr.にとってそれが簡単に受け入れられるものではないことも、ラーメンマンとて理解している。 決して、ラーメンマンの思うことを押し付けるわけにはいかないことも、だ。 だからこそ、妥協も必要だということも。 「――だが、どうあっても諦めきれぬとしても、せめて超人オリンピックが終わるまでは待ってはくれんか?」 だが、その妥協を求めることすら身勝手だと。 内心で思いながらも、ラーメンマンは言葉を続けた。 「わたしは勿論、一週間後の準決勝を戦う。そして、勝つ為の最善の努力をする。超人レスラーが試合に臨む以上、負けてもいい、などという姿勢であってはならないからだ。負けを視野に入れて戦う超人はいない。勝つ為に己の持ちうるすべてをつぎ込むのが、超人というものだ。目の前にある試合を投げ出すことは――超人レスラーにとって決して出来ぬ――為してはならぬことだ。だから――待ってくれ」 勝手な言い草だとは思う。 問題を先送りにしているだけだということも。 しかし、これ以上の言い訳は、今はなかった。 何故なら、彼らは超人――超人レスラーなのだから。 超人レスラーにとって存在意義ともいえる試合を目前に控えながらも、それを放棄することなど、出来る筈がない。 そして、戦う以上は勝たねばならない。 超人には、負けてもいい試合など――負けを想定した戦いなどあってはならぬのだから。 あるいは、その姿勢こそが、超人という種の業ともいえるかもしれない。 「……あんたは、オレの親父を殺した。それは、絶対に忘れられやしねえ」 呟くようにつむがれたブロッケンJr.のその言葉に、ラーメンマンは内心でさもあらん、と頷く。 血を分けた肉親を、それも惨たらしく――殺した人間が言う筋合いではなかろうが――殺されては、いかに周囲から理を説かれても納得出来ないだろう。 そして、それと同様に、肉親を殺された被害者としては、その事実と加害者の存在を忘れ去ることなど出来はしないだろう――決して。 「だが、オレも超人レスラーだ。超人レスラーにとって試合がどれほど大切なものかくらい、知っている」 視線を己の足元に向けたまま、ブロッケンJr.はどこかぶっきらぼうな口調でそう続けた。 戦いに適した形に進化した種である超人の、更にその中で、戦う為に存在する超人レスラーにとって、戦い――試合がいかに最優先事項であるか。 それは、同じ超人レスラーでなくば理解しきれない心理といえた。 「――待っては、やる」 ぽつり、とこぼれたのは。 小さな、本当に聞き逃しそうなほど小さな呟きだった。 「ただし、あくまで、あんたにとってのオリンピックが終わるまで、それまでだ! その時に改めてオレと戦え!!」 それを振り切るように、ブロッケンJr.は顔を上げ、声を荒げてその言葉を吐き出した。 その言葉は、単語の持つ表層の意のみを――あくまで復讐に固執するという意図を――示しているものではないのだと、ラーメンマンは直感した。 無条件で許すなど、出来得る筈がない。 そう容易く捨てられるほど軽い憎悪ではないのだ。 しかし、時節を選ぶ程度の節度は心得てもいた。 ブロッケンJr.の中で複雑に絡み合う感情と理性がせめぎあい、そして、ようやくしぼり出した現時点での最大の妥協点であるといえるだろう。 だが、同時に彼がそこまでの妥協を受け入れたことは、喜ぶべきことともいえた――何よりもブロッケンJr.自身の為に。 そのことに安堵を覚え、ラーメンマンはわずかに目を細め、そして、ゆっくりと頷いた。 「――分かった、ブロッケンJr.。オリンピックが終わったその時に――わたしは改めてお前と対峙しよう。約束する」 ――しかし。 その約束は果たされることはなかった。 そして、再び彼が“ラーメンマン”としてブロッケンJr.の前に現れるには、あと二年半の時間をするのだった――――。 続
2004年葉月中旬 |
ザ・ビッグ・ファイト空白の一週間は、月読が書くとこうなります。 本当は、ここでいったん切って次の終章はタイトルを変えようかと思っていたんですが。 中途半端なので、同一タイトルのまま統一しました。次で本当に終わります。 |
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